ひと頃は年間数十回と足繁く通ったゴルフであったが、皮膚が弱くて極端に日に焼けてしまうことで悩み続けてきた。ほぼ一年中傘を差してのプレイとなった私で、傘は私のトレードマークのようであった。それでもやはり日焼けを完璧に防止することはできなかった。特に真夏の照りつける太陽の下では、始末に終えないほど日焼けの跡とメイクが分かれてしまって、絶望的な思いになったことも5回や10回ではない。そんなときにいつもアタマを掠めたのは、アザをさらして人前に出ていた19年間、アザの部分を自分はこんなにも気にしてなどいなかったなぁ、ということであった。

繕う、もっと自虐的な調子をこめて言えば欺く、ということがどれほど私をダメにしたことか。アザを隠して生きる対人関係がはじまった途端に、二度とアザの事実を知られてはならないとの強烈な意識が私を支配してしまうこととなった。そこには守るべきものを獲得した状況に於ける弱者としての己の哀れみが、今もなお息づいている。1967年のあの夏以降、私のアザをまともに見たのは、家族を除いてはわずか5人しかいなかった。

付き合っていた女性の中に、こんな相手もいた。私がアザのことを打ち明けると、全く驚くふうでもなしに、「伝染病なら逃げますけどアザは移らないでしょ、全然気になりません」と言われた。

 

しかし、過敏に右側を意識し続けてきたことで、それが何かを隠すためのものではないかと見破った人間たちが、案外多かったのではないかと想像したりもする。大人社会の中では、小中学生時代よりさらに、ダイレクトにメイクについて質されることもなかったが、まさにそこには私への配慮があったに相違ない。逆の言い方をすれば、それを飛び越えて私の世界に介入してきて、メイクへの疑問をぶつけた相手というのがごく少数であったことは寂しくもあった。30年以上に及ぶメイク人生で、わずかに2人の男がいたのみである。根掘り葉掘り訊き出すのは、先にも述べたように相互信頼への裏切りとなり、他者は極力抑えるわけであるが、アザを化粧でカムフラージュしていることを私のほうから積極的に宣言しても良かったのに、との思いはある。

言ってみれば、これを欺きではなくてファッションの一環と心得る神経が私には欠けていた。20代の半ばに知り合ったある女性が、私にメイクの秘密を聞かされたあと、「おしゃれな方だと思っていたんです」と言った。今思えばあれは重大なヒントだったのである。女がルージュを引くのと同様の印象を彼女は私に抱いていたわけである。