さて、人間として生を受けたこと、その人間の寿命が精々七、八十年であるということ、これらを総じて運命と私は解釈してきた。人間の顔はアタマ、額、眉毛、目、鼻、口、頬、アゴ。乱暴に言ってしまえばたったこれだけの造作なのに、人類ある限り全く同一の顔というのは決して再現されることがない。だとすれば個々の性格とか運の良し悪しなど、人の数だけ種類があって当然であり、同じ境遇などというものはあるわけがない。今日まで可哀相、という感情を私が他人に対して滅多に持ったことがないのはそんな感覚からもきているし、いたずらな同情は反感を買うばかりでなく、むしろ当人を傷つけてしまうことになりかねないと考えているせいでもある。それより何より、同情は傲慢である。人は所詮他人の人生に責任など持つことはできないのである。

 

 両手が無いことで悩む人、結婚相手がみつからなくて悩む人。両手が不自由な人から比べたら結婚できないことなんかで悩むのは贅沢だということになるのかも知れない。しかし、こうしたことは、本来傍の者による勝手な順位付けがなされるべきものではない。

 私の顔のアザなどというものは身障者に言わせれば取るに足らないものであろう。けれどもこのことは私本人だけが言う資格を持っていることなのであって、他者にはそんなジャッジを下す権利はない。もしあるとすれば私と同じく顔にアザを持った人間だけである。アザで一体どれほど私が陰鬱な思いをしてきたか、それを理解できる他者はおそらく同類以外には考えられない。そしてこのアザで私が決して卑屈な感情を抱くことがなかったことを、褒めたり称えたりする資格など、これもまた誰にもありはしないのである。

 けれども社会ではこの理屈は通らない。犯罪者の裁きで、諸々同情できる面があるとするニュアンスを時折見る。もし仮に私がアザのことで心がねじけて何らかの罪を犯したらどうか。情状酌量されるであろうか。まずそれはあるまい。それどころか卑屈になったこと自体非難され、「小児麻痺であろうと身体障害者であろうと、末は大統領になった人間もいるんだぞ」、などと一喝されるのがオチである。アザに勝てなかったという個人的なプロセスは厳しく叩かれるに違いない。要するにハンデの大小にかかわらず、いかなる個体のどのような罪であれ、審判は他者によって下される。これが安全圏の掟である。

 

 今日まで、卑屈になることもなしに社会生活を営んでこられたのは、たまたま私が卑屈になるタイプの人間ではなかったからにすぎない。アザは重く私にのしかかってくる問題ではあったが、少なくともアザが私の立場を危うくする場面はなかった。但し幾度も言うように、私のアザを見た者は皆無と言ってもよく、アザを隠さずに外部へ出ていたらどのような展開が待っていたか、という点についてはもはや何ひとつ想像できない。

 どんな人間にもおそらく悩み事はあろう。金銭のこと、色恋沙汰、身体に関すること、家庭の問題、人間関係。しかしいかなる悩みであれ、解決するしない、解決できるできないは、成り行きや運の作用だ。結局すべては個人的な事柄であって、対処法などというものは元々存在しないのである。私のアザにしても、カヴァーマークというものがなければ長髪で隠したかも知れないし、何ら手を打つこともなかったかも知れない。顔のアザで悩む者のために研究してくれた人たちにつくづく感謝したい。が、メイクでは実は決して本当には満足していないのだ、という思いが強いことは否定できないのである。

 

        ※ここまでは1998年暮れ、50歳を過ぎた時点で記したもの。