人は他人事にはおおむね無責任である。ここで言う無責任とは、善意に見える振る舞い(言動)を指すものである。「社会は実力主義だよ、学歴じゃないよ」と堂々と宣言できる資格を持つのは誰か。それは学歴がなくて成功した人間だけである。学歴を持つ人間にはこれを言う資格は元よりない。世の中は学歴じゃない、と学歴のある者が叫ぶことには何ら真実味はない。

 

20代のはじめ頃に書いた「告発のプレリュード」という文章で、相互信頼とは何か、について相当のページを割いている。私が言おうとした相互信頼とは、借りた金は必ず返すというふうなまっとうな理屈のことではなく、脅せば怯む、といったいわば裏側の話であった。脅しても相手がまるで怯まないという場合、その相手こそ脅した側にとって相互信頼を裏切るヤツだというのが私の理屈なのである。

信頼という語句の前に相互をわざわざ付けて相互信頼と言い出したのは、この「告発のプレリュード」からであった。平素私たちは、判っていても知らなかったことにしておく気遣いを見せたり、あえて指摘しないことで相手を見逃してやるといった余裕を見せたりする。しかし、それらは社会通念上、ことさら褒め上げるほどのことではない。

さり気ない日常生活にあっても、私たちは取り残される恐怖、というものを漠然と意識しており、安全圏内で許容できる範囲の事柄については存外鷹揚である。安全圏とはこの社会を指す言い方で、安全圏独特の仲間意識は、正義とは数であり力であると認めざるを得ない環境の中で生きている、まさにその共感が土台となっている。他者に対して迂闊に許容範囲を狭めると、己の身の安全も危ういものになってしまうことを、われわれは薄々感づいている。

もちろん広い世界には、誤った正義で人心を操ってきた政府に敢然と立ち向かって、あたら命を落としていった勇気ある少数派、といったエピソードも過去になかったわけではない。それらは脈々と語り継がれ、小説にもなり映画をこしらえた例もある。だが、結局において、歴史の屑かごへと葬り去られた悲劇、という扱いを超えてゆくものにはなり得ない。少数派は大多数側からすれば、つまり例外であり裏切りということになる。安全圏に於ける相互信頼とは、例外を野放しにしないことであり、裏切り者の粛清に総力を挙げることなのである。また仮に、何らかの弾みで例外や裏切り者が際限なく増え続ける状況が生ずれば、今度は正義がそちら側へ移るだけの話である。

 

殆ど全ての人間が、おそらく他人の思惑の範囲内でしか生きることができない。普段私たちは合わせるだけの役回りで流されていて、死ぬまでその掟から逃れることはできないのである。しかし相互信頼のメリットは大きく、特殊な地域の特殊な状況下に置かれた人種でもない限り、暴動を起こしたり体制を転覆させる荒ワザに走る愚は犯さない。さながら日本という国は、およそクーデターなどを画策することのない人たちの集合体であり、周囲に合わせた生き方さえしていれば無難だという人が大多数と思われる。

ところで相互信頼を打破した先にあるのが自己実現だと、大仰な講釈をぶち上げた「告発のプレリュード」ではあったが、その後における私の振る舞いは、案の定、精々好き嫌いを明確に区別するぐらいに留まってしまった。