知り得た日本の曲で最高の好みと言えば<さよならの夏>と答える。この曲は夏全般を通して聴くが、森山良子の楽曲の中では傑出しており、学問としての音楽について全く無知な私でも、これが大傑作だということは何となく判るのだ。500曲を超える曲を超素人レベルで書いてきた私だが、<さよならの夏>は、いわば私のごとき独善的な自称作曲家などには到底踏み入ることの叶わぬ孤高の旋律なのだろうと思う。

 

 思わせぶりな曲風に少々似合わぬタイトルかと思うのが、<恋はマジック>だ。曲の中盤からシャウト唱法のような調子になってきて、なかなか聴かせる。バリー・マニロウといえば<コパカバーナ>しか覚えがなかった。しかしある夏偶然この曲を知り、どことなくメランコリックな重厚さが感じられて、以来好みになった。秋がすぐそこまで来ていることを痛切に感じさせる楽曲である。

 秋の気配といえば<ハニー>も同様だ。人のいない風通しのよい草むらで、日差しを遮る大きな木の根元付近に腰を下ろして、ボビー・ゴールズボロの穏やか過ぎるソフトヴォイスに聴き入るのである。エンゼルが本当に迎えに舞い降りてくるかも知れない。

 

 若い頃、8月の声を聞くとすぐにでも聴きたくなるのが<悲しみの兵士>だった。シルヴィー・ヴァルタンの新境地を開いた曲だとの宣伝文句が印象深く、なるほど<アイドルを探せ>あたりとはまるで趣の違う楽曲である。部屋で目を閉じて聴きながら、どうして夏というのはこんなにも寂しい季節なのかと、毎年のように考え込んでしまっていた。

 

 無類十傑のひとつ<遙かなるアラモ>は、8月も終わりに近づいた頃になると聴く気になるが、7月中には聴かない曲である。このプレイリストの殆ど全てが同様であって、曲の数を比較しても後半の舞台が圧倒的だ。小学校高学年の時分から夏は7月31日までといった感覚があった。では8月1日からは何だったというのか。

 秋とは言わないが絶対に夏ではないイメージ曲<過ぎ行きし日々>は、私の感性に妖しく囁きかけるこの微妙な季節に於ける代表曲と呼んでもよい。曲風の好みという点でも、いつしか<遙かなるアラモ>を凌駕したとさえ感じているのだ。

 

 (一)

 いたずらに夏が終わってゆく

何も起こらないことだけが

正しく僕のすべて

恋は離れ面影さえも消えてゆく

 

 (二)

憧れの行末に待つものは

思いも寄らぬ独りよがり

ただでさえ孤独に浸りやすい僕

きょうの黄昏は灰色雲重

 

 (三)

いつかしら

あなたが僕の傍らに眠るときがくる

そんな途方もないこと思い描いて

過ぎてゆく夏を噛みしめてる

 

 (四)

何もかも夢のままに過ぎて

取り残された僕がいる

今は虚ろな心、愚かな願い事

何も起こらないことだけが…

 

あゝ緑の中へ帰って行きたい

 

                <予感> 1978年8月作

 

 <過ぎゆきし日々>は、まだオレの季節は終わっちゃいないぞ、とばかり胸を張る入道雲と、アブラゼミのあのギラギラした、それでいて澄み渡った鳴き声と、更に海が見えていればパーフェクト。そんな渦中でしみじみ聴き入りたい曲である。これがいつの間にか「恋は青春の思い出」などという俗なタイトルに変えられて出て来た際にはガッカリしたものだ。元々これは彼の初期の曲で極めて味わいが深い。わが「予感」はこの曲の影響が強く出たもの。どの道素人で、曲自体には似たところはないけれども、詩はこれをイメージして書いている。