<傘のテーマ>は独特の魅力を持った曲だ。「おや、何とまぁ兄さん、そんなにめかしてどこ行くの、森の中のちっちゃいあの娘の家に行くんでしょ、ならさナラサ、でもさデモサ、そんならさ、ならさナラサ、でもさデモサ、そんならさ、赤アカ、青アオ、紫の傘持ってけ」。霊界とは実に愉快な楽しいところだとする、宣伝効果を狙ったような曲。もっとも〈死〉ということにいたずらに憧れてもらっては困るという戒めもあったか、自殺したら希望の霊界へは行かれないぞ、といったメッセージの添付は滑稽だった。

 

<日陰の二人>はケイト・ウィンスレット出演の映画〈ジュード〉に使われた楽曲で、おそらく一般にはさほど知られていない名曲のひとつであろう。<悲しい渡り鳥>同様、年間通じて最も悲しい季節は春だと、この曲もつくづく感じさせてくれる味わいに満ちた名旋律。もしこの曲が60年代前半頃までに出ていたら、私の【無類十傑】における勢力図は大きく変わっていたであろうと充分想像できる。

 

 大御所アズナヴールの<世界の果てに>はこの季節がいい。後述する機会もあろうが、ピア・コロンボの歌唱となるとトシの後半となる。けれどもこの曲はいずれにしてもタイトルが気に入らないのである。原題どおりに<私を連れてって>にしたほうがいいと思っている。ピア・コロンボの歌い方にはとりわけ切実な訴え、倦怠からの脱出を願っている雰囲気が出ているのだから、連れて行ってもらえるのであればどこでもいいわけだ。いわば切なる願いである。だから名曲<エンド・オブ・ザ・ワールド>と混同してしまうタイトルにはかなり抵抗を感じている。

 

春の終わり。それは間もなく銀の季節がやってくることであり、その状況を音楽で表現すると<マリア・エレーナ>なのだ。

1976年の春、片思いの相手が自宅の火事で焼死した。このことを題材に幾つか曲を作り、【内部への鎮魂句】とタイトルした小説も書いた。彼女に宛てた手紙を散りばめる方法で書き上げたのだが、手紙の部分を自室で朗読してテープに収めるという、いかにもナルシシストの私らしい秘密の行いがある。この朗読のBGMとして<マリア・エレーナ>こそ真っ先に思い付いた楽曲だったのである。独り芝居の極致にいた私は、曲の終わりあたりでこうつぶやく。「プレリュードは鳴りやんだ、間もなく銀の季節がやってくる」。