(一)

 外国の音楽にはじめて触れたのは1959年の秋頃だった。<谷間に三つの鐘が鳴る>(ブラウンズ)という曲。以来1980年代の中頃まで洋楽ポピュラーを聴き続けた。年数にすれば精々25年ほどだが、それでも知り得た曲数はどれくらいになるのか見当もつかない。ただ、好みのベストテンならば明瞭だ。それを【無類十傑】と呼んでいる。

 

<小さな花>(ボブ・クロスビー&ボブ・キャッツ)

<遙かなるアラモ>(ブラザーズ・フォー)

<ショーレム>(アーサ・キット)

<恋のブルース>(フリップ・ブラック&ヒズ・ボーイズ・アップステアーズ)

<月光のノクターン>(ディック・ジェイコブス楽団)

 

<霧の中のロンリーシティ>(ジョン・レイトン)

<三度目のお月様>(ニール・セダカ)

<青春に生きる>(ジーン・ピットニー)

<悲しい渡り鳥>(ジーン・フォーレル楽団)

<悲しみの舞踏会>(ミッシェル・ポルナレフ)

                       以上、知った順に。

 

 この10曲の中から真なるナンバーワン好みを選ぶとすれば、<小さな花>である。つまり60年近くも過ぎたというのに、結局この曲を凌駕する好みは出て来なかったということなのだ。多くの楽団やアーティストが取り上げたが、ボブ・キャッツは抜きん出ていた。クラリネットをピーナッツ・ハッコーという奏者が担当しており、まさに永遠の余情を湛える音色だった。1959年秋は小学校5年生の第二学期にあたる。レコード購入など想像もできなかった少年時代で、手に入れたのが1963年、中学校3年生の時だった。東京オリンピックの前年である。あの頃買ったレコードプレイヤーは10曲も聴かぬうちに加熱で止まってしまい、冷えるまで暫く待たされたりしたものだ。

 

しかしそんな初期の時分から、私の中に重大な取り決めがあった。曲をプレイヤーにかける際の状況へのこだわりである。とりわけ<小さな花>を部屋で聴く場合のその設定は病的だったと言うしかない。仕方なしに自室で聴いたが、実は銀座の夜のネオンサインに溶け込みながら聴くことを切に望んでいた。しかもそれは7月25日前後の蒸し暑い金曜日でなければならず、天といえば快晴の、そして午後7時半ごろとする条件を以て、ようやくパーフェクトとなるものだった。が、仮に全て整ったにしてもウォークマンのようなものはまだ世に存在しなかった。「プレイヤーを運んで行って銀座のどこかでコンセントを借りるわけにもいかないしなぁ」、などと友人と笑いながら嘆いたという、今ではあまりにも隔世的で口にするのも恥ずかしいエピソードがある。ともあれ少なくともこの60年余、<小さな花>を冬の季節に聴いた覚えはない。私の中で厳しくそのあたりは戒めてきたからである。

幼い頃からカレーライスが大好物で、母親への注文が「ボクがカレーを食べたいと言わない限りこしらえないでよ」というもの。頻繁に作られることによってカレー自体が貶められてしまうのを恐れていたのである。好む楽曲への心情も同様だった。レコードが擦り切れるほど聴くといった行いは私のものではない。気に入った曲だからといって続けざまに何度も聴くのは愚かな行為と、飽くまでも頑なだった。好みの度合いが強い曲ほど聴く回数が少ないわけである。つくづく考えてみると馬鹿馬鹿しいような取り決めに思えるけれども、わが最たるこだわりがまさしくこれなのだ。