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まさかずのブログ

何を見ても何かを思い出す。
小説・映画・法律・政治。

久しぶりのブログでやんす。

僕は中学生くらいの頃から、
村上龍の小説を、ほとんどと言っていいくらい読んできましたが、
内容はごく一部を除いて忘れてしまいました。

そういった作家は思いのほか沢山いて、
たとえば大江健三郎にしろ、トオマス・マンにしろ、
ドストエフスキーにしろ、
そのほとんどの著作を読んだにも関わらず、
どんな話しなのか聞かれても、
まともに答えられる作品は皆無に等しい。

大江健三郎の母上に言わせると、
こういった読書は何の意味もないとのことですが、
僕は小説の中の一部の言葉や
構造的なエッセンスをしつこく忘れないので、
誰に迷惑をかけるわけでもないし、
まあそういった読書をする人間がいてもいいのかなとか思いながら、
多くはない読書を進めています。

というわけで、村上龍の、タイトルも忘れてしまった作品に、
「欲望は存在しない、対象があるから欲望が生まれる」という風な
文章があるのを思い出しました。
(『愛と幻想のファシズム』か、
お値段のはるお料理の短編集だったかと思います)

食欲に負けて食べ過ぎちまったとか、
物欲に負けて衝動買いをしてしまったとか、
生理的に近い欲求が対象に向かうことを
一般的には欲望と呼んで差し支えないと思いますが、
これとは正反対のベクトルで、
対象に対して抱く想像力・価値観を
欲望と呼んでいるのだと、村上さんは言っていたと思います。

つまり、「何かを欲しているからする」のではなく、
「何かがあるから欲する」というわけです。

はっきり言ってこれは
村上龍お得意の、欲望を肯定するための
極論的な論理なのですが、
欲望そのものを考える上で、
たいへんに意味のある考えだと思います。


合理性という言葉は、
どの世界、業界にとっても、きわめてまっとうな「正義」です。
理にかなったことなのだから、
合理性が悪だというのは、
ここではまったく違う話しになります。

人間が、彼の欲求を満たしたいと思うのは
彼個人として合理的な思考だと思いますし、
それを実行に移すことが正義かどうかは別にして、
功利主義ではないけれども、
欲望を持つことは、人間の意思としてまっとうだと思うのです。

だから、個人が「こうありたい」と望むことは、
その善悪を別にして必然的・合理的なパターンなのです。

対象があって、欲望が生まれる。
その一連の流れは、民法的におおまかに考えると、
・対象を欲しいと思う

・それを購入する意思を持つ

・購入する意思表示をする

というわけで、これは一応「法の支配」のある社会の成員である以上、
従わなければ行けない「意思」の定義である訳です。

じゃあ、たとえば「楽してお金をたくさん手に入れたい」という意思があったとして、
その意思を否定することは、大変難しいのではないかと思うのです。

日本国の刑法では、
賭博は禁止されています。

競馬だとか宝くじも賭博なのにおかしい、というのは
よく聞く主張ではあるのですが、
その違法である根拠は、
国民の射幸心を煽って、みんな働かなくなるから、らしいのです。

なんで働かなくてはいけないのかというと、
憲法で国民の義務として勤労があるからです。

射幸心とは、「楽してお金をたくさん手に入れたい」というような
まあ幸運に任せて成果を期待することなわけですが、
これってそもそもが、
憲法にはっきりと明記されている
(ドラえもんのポケットと俗称があるくらい評判の悪い)
「幸福追求権」と一緒じゃないかと思うのです。

幸福の定義はこの際置いといて、
人間はその人なりの幸福を必ず求める、
幸福を追求する欲望を持っている訳です。

幸福の追求に対しては
公共の福祉と言うリミッターがあるのですが、
ただ「幸福を求めること」に対して、
これを否定することは、制度が自己否定をすることだと思います。

爆笑問題のラジオで、
「思っちゃったんだからしょうがない」というコーナーがありますが、
思うことは何の罪もなく、
それは自然な人間の意思の流れとして
法の制度に組み込まれています。

法の問題だけではなく、
人間の自由な意思を否定することは、
人間の意思の不在を意味すると言っていいでしょう。

ここで話しを戻すと、
欲望=意思は、本来存在しなくて、
対象があるから欲望が発生する。

そう考えると、宝くじや競馬があるから、
人間の射幸心が生まれるのです。

刑法では、そもそも「射幸心を煽る」ことを禁止しているので、
言うなれば「対象が存在する」ことを違法としているのです。

だから、明らかに対象として存在する
競馬場や宝くじ売り場、パチンコ店が
何喰わぬ顔で営業をしているのかを考えると、
それは社会の特定の恣意性がそれを許容し、
それによって権益を生んでいるのです。

その恣意性=権威=金こそが、
人間の自由意思の妨げとなるに違いないと、
僕はここ3日くらい思っています。

つまり、恣意性が幅を利かせる論理がまかり通ってる社会の成員で、
幸福だとか語る人間はどうかと思うのです。

あんまり中身のない話しですが、
思っちゃったんだからしょうがない。