私たちが本当に見るべきものは | A Day In The Boy's Life

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とあるエンジニアのとある1日のつぶやき。

この休みの間に、とあるテーマパークに行ってきまして、クリスマス間近とあってか、綺麗なイルミネーションやショーなどをやっていました。

それらの周りには、人、人、人。

まぁ、人々の心を打つのには十分なものがその中にはあったと思います。

私もその中の一人だったわけですから。


ここ最近、こうした人ごみにまぎれていて疑問に思うのは、その人ごみの中の一部の人の視線は、そのショーやイルミネーションではなく、デジカメのディスプレイにいっているという点。

確かにデジタルカメラのディスプレイは、そのレンズの先にあるものを正確に映し出しているのでしょうけど、まさに目の前に自分が興味を持っている(だからレンズを向けているのでしょうけど)対象がいるのに、自分の視野で見るよりずっと小さいデジタルカメラのディスプレイを覗いている人が沢山います。


その行為自体を全部否定するつもりは無いのですが、なんかそういったものって目だけでみるものではないんじゃないかなぁと思ったりするわけです。

そこにいる子供は誰一人としてデジカメを扱ったりはしていませんでした。

子供はデジカメで写真を取る事には興味を持たないだろうという意見があるのでしょうけど、子供が興味を持っているのは、まさにその目の前にある風景であって、でも大人はその目の前にある風景を肉眼ではなくデジカメでそれを撮影する事に夢中になってたりしています。


確かにデジカメで記録する事は便利です。

人間の脳の記憶よりずっと正確なものがそこには記録されていますから、後で見たときにその記録と脳の記憶をシンクしてくれるのを助けてくれるかもしれません。

私は記憶力があまりよいほうではないので、そういった記録があったほうが後々便利に感じています。

でも、まさに目の前に動くその風景を見たときの印象というのはやはり目で見て、その時に記録した心がそこにあったから楽しいのであって、デジカメで夢中に撮影したものを後で見ても、単にその時の風景を思い出すだけにしかならないような気がしています。


取った画像をネットにアップして、友達や自分と興味の近い人たちと共有する事に使う場合もあるかもしれません。

それはそれで有意義な使い方だと思いますが、共有すべき事は画像そのものではなくその時の感動ではないのか、と思ったり。

であれば、まずは自分が感動する必要があるのではないかと。


なので、私は本当にその一瞬しか見れない風景に対してはデジカメで記録することはしたくないと思ったりします。

記録するのは、まずは自分の心にしたいと。

何も考えずに、それだけを見てみる。

きっとそこには何時もと違う何かを感じることができそうな気がしないでしょうか。