野馬土手って何よ | 大山格のブログ

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おもに歴史について綴っていきます。
実証を重んじます。妄想で歴史を論じようとする人はサヨウナラ。

 ちかごろ野馬土手のことを、よくブログに取り上げておりますが、そもそも野馬土手ってなによ、ということを、あらためて御紹介しましょう。

 藪に呑まれてよくわからないけど、画面右が大きい土手で、真ん中あたりが溝で、左に小さめの土手があります。馬の通行を妨げるという目的を失って150年たちますから、溝は埋もれるままにされ、土手もガス普及によって木が伐られなくなり、伸び放題になっています。現役時代は、こんな状態ではなかったはずですが、かろうじて残っています。それがいま、消えようとしています。

 

 下総国の北西部には氾濫原野が広がっており、江戸時代のはじめ頃に利根川東遷をはじめとする大規模な治水事業によって、開拓が可能になりました。現在の江戸川は、その時期に人工的に開鑿されています。

 人が住みつく前、もともとは野生馬が生息する原野でした。それらの原野の一部は徳川幕府直轄の牧場とされ、一部は開拓地となって新田が開発されました。

 

 農家にとって野生馬は、たいへんな脅威です。群れで行動するから、収穫期には畑一枚の作物を、一日で食い尽くされてしまいます。そのため、人里と放牧地を仕切る土手が必要でした。これを野馬除土手といい、縮めて野馬土手ともいいます。

 幕府が設置した北総地域の牧のうち、 江戸後期に庄内牧(野田市)が廃止されます。跡地は「林畑新田」と区分される地域になりましたが、新田とはいうものの、薪炭の原料を得るための雑木林と、農家の飼い馬に喰わせる牧草地であったようです。

 せっかく育てた牧草を、生き残っていた野生馬が勝手に喰ってしまったりしたので、 野馬方代官であった岩本石見守が、旧庄内牧の野生馬を小金牧に移したことで、近隣の農民からたいへん感謝されています。

 また、小金牧近隣の農家に、牧の内側を採草地として利用することを許可するなど善政を布いて、生きながらに感恩碑が建てられるほど農民から愛された人でした。近隣農民が野馬土手を利用することで、適度に間伐がなされ、土手の維持にとっても好都合で、さらには、生産された木炭は茶道用に使われるほど良質のブランド品となりました。ここで、土手の維持管理ということが繋がってきます。

 

 維新後、小金牧は全廃され、大規模な開拓が始まり、野生馬は棲めなくなりました。それでも野馬土手は薪炭林や採草地として残りました。それが、いま消えようとしています。

 

 

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