事実ならざる二本松落城哀史 生き物としての歴史 01 | 大山格のブログ

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おもに歴史について綴っていきます。
実証を重んじます。妄想で歴史を論じようとする人はサヨウナラ。

 昭和戦前期にサンデー毎日で「生きてゐる歴史」という、幕末から明治にかけての歴史的事件を実際に見聞した故老の談話筆記を連載していたことがありました。いまでいうオーラル・ヒストリーというものですが、これが酷いデタラメなのです。歴史を語り継ごうとした故老たちには悪意など感じられないのですが、でもいっていることは間違っています。いくつかの記事を御紹介しますから、史料批判の練習だと思っておつきあいください。

二本松藩家老丹羽掃部介の
        四女が語る落城哀史
  「サンデー毎日」昭和十五年七月七日號


◆映畫「歴史」に登場する丹羽家老
 慶應四年(一八六八)、江戸が開城された。
 會津を盟主として奧羽の二十五藩は、德川幕府の大政奉還は、薩長土肥の陰謀たりとして朝意に背き、ここに會津追討の師が起こされた。
 二本松藩主丹羽長國も連盟に加はつて、官軍と戰つたのであつたが、時の二本松藩の家老丹羽掃部介の四女ふじさんは、今なほ八十一歳の老年ながらなかなかの元氣で、東京市中野區本通り三ノニ四の寓居に、夫のこれも八十三歳の中畑十太さんと一緖に侘しく暮らしてゐる。
 二本松藩家老丹羽掃部介の長男主膳は、白河口の戰ひで總大將となつて奮鬪した士、のち廢藩置縣となつてからは二本松の大參事となつた。二男九郞次は白河口の戰ひで戰死、三男治太夫は二本松城内で戰死、四男四郞、五男五郞とも二本松少年隊員として二本松城外の戰ひには、わづかに十三、四歳の少年でありながら參加した。
 家老の娘ふじは、二本松の落城とともに一族とともに米澤に落ち延びた。
 小説になり、また映畫化された「歴史」〈内田吐夢監督、昭和十五年封切〉は、この奧羽諸藩の騷亂を中心としたものである。
「歴史」には二本松城主丹羽長國も、家老丹羽一學も丹羽掃部介も登場してゐる。さすれば、その丹羽掃部介の四女であるふじさんこそ、まさしく「生きてゐる歴史」といふべきだらう。白河の戰ひと二本松の戰ひに二人の兄を失つたこの家老の娘ふじさんは、いまは八十一歳の老媼であるが、幕末の戰ひを目のあたり見聞した數少ない一人なのだ。
「そのころ、私はまだ八つか九つだつたのですが、あの恐ろしかつた摸樣は幼心にも、しみこんだものと見え、今でもよく覺えてをります――」

◆德川三百年の恩義に起つた奧羽勢
 今は昔の話。老媼ふじさんは德川幕府三百年の夢を忘れ切れずに蜂起した、武士の斷末魔の姿である二本松落城の有樣を語るのであつた。家老の娘にしてはあまりにも年老いて侘しい姿ではあるが、過ぎし日を想ふふじさんの眼には、ありありとなつかしさの情がこもつてゐた。
「あのころの人はもう二本松には誰も生きてをりません。私と連れ合ひと二人きりになりました。私たち二人はよく昔の話を思ひ出しては話し合ひますが、ほんたうに夢です。
 江戸城が明け渡された。將軍樣が水戸に入られて、位を十六代樣にお讓りになつた、といふ噂が二本松の方へも傳はつて、武士も町人もこれからどうなることかといふので、城下は不安のため騷ぎがはげしくなるばかりでした。
 そうかうしてゐるうちに、奧羽の藩が同盟して大政奉還に反對しあくまでも、德川將軍家を護らうといふことになつたのです。
 この奧羽各藩の大評定が仙臺に開かれました。それは、慶應四年の五月だと覺えてをります。
 二本松藩もこの同盟に加はつて城代家老の丹羽一學樣が仙臺の會議に出るために出かけられました。
 私の父掃部介は次席家老だつたのです。兄が五人、雇人も三十人ほどもをりました。いよいよ官軍と戰爭すると決まつて、父をはじめ兄たちもその準備のため、毎日殺氣だつた空氣が家中にみなぎつてゐました。

◆白河口に官軍を迎へ擊つ
 仙臺の評定から城代家老の一學樣が歸つて來ると間もなく、官軍は白河に攻め寄せて來ました。白河は奧羽への入口ですので、ここで是が非でも官軍を食ひ止めねばなりません。
 盟主の會津をはじめ仙臺、米澤、庄内、二本松その他各藩では白河城を中心に陣を布きました。二本松藩は白河口で官軍に對しました。
 この白河口方面の總大將は二本松藩の内藤樣といふ方でしたが、その内藤樣が六月二日に戰死してしまひました。そして、私の長兄主膳が代はつて總大將になりました。
 白河口の戰爭はなかなか激しかつたのです。二本松藩の兵はよく鬪つたのですが、なにしろ、官軍はあとからあとからと新手を加へて押し寄せて來るのです。
 次兄九郞次は六月十二日、つひに戰死しました。九郞次は、伯母の息子で小隊長の植木次郞左衞門の部下でした。年は二十七でしたが、敵陣に斬り込んであつぱれな戰死だつたさうです。
 白河城の戰爭が激しくなるにつれて、二本松城下の騷ぎもひどくなりました。 白河と二本松とは十五里あります。毎日毎日白河から早馬が驅けつける、早駕籠が飛んで來る。城内に戰爭の摸樣の報告なのです。
 私の家では家來が庭にまで入つてものものしく槍や鐵砲を持つてをります。夜になればかがり火を焚き、寢る時でも帶をしめたままです。
 母は、私に、
「お前も武士の娘だ、何時死んでもいいやうに覺悟をしなさい」
 と、言ひ聞かせましたが、まだ幼かつた私は、死ぬのは別にそれほど恐ろしく思へませんでしたが、なにしろ毎日毎日の城下の騷ぎにこれから先どうなるのか、といふ心配でいつぱいだつたやうな氣がしました。
 早馬や早駕籠が來た後には、〝だれだれが戰死した〟といふ噂が傳はり、味方の苦戰の報せばかりでした。
 父は、城内に入つたきり歸つて來ません。五人の兄たちもみな、勇ましく戰場に出ました。

◆悲壯白虎隊に劣らぬ少年隊の最期
 四兄の四郞は十五歳、五兄の五郞は十三歳でしたが、二人とも二本松少年隊に加はりました。十五歳や十三歳といへば、今日ではまだ小・中學校です。その兄たちの勇ましい姿が今でも、ありありと目に浮かびます。
 味方がいくらよく鬪つても所詮、官軍には勝てません。白河城は六月二十三日に落ちました、官軍はその勢ひで會津を攻めました。會津はそれでも一ヵ月ばかり保ちましたが、やつぱり駄目でした。 會津が落ちたとなると、三春の藩主が官軍に降參してしまひました。降參したばかりか、三春の兵が官軍を案内していよいよ二本松に攻めて來たのです。
 勝てる戰ひではありませんが、二本松の者は一人殘らず死ぬ覺悟で城下から一里ばかり酉の大鹽や、增方に陣地を築いて官軍を防ぎました。この戰ひは白河口に次ぐ激戰だつたさうです。二本松藩の武士はここで大方戰死しました。
 增方には、二本松少年隊が出陣して勇ましく戰つたのです。
 會津の白虎隊のことは世間に有名になつてをりますが、二本松少年隊のことはまだ世の中に知られてをりません。
 二本松少年隊の隊長は私の從兄で靑山助之丞といつて、その時二十三歳でした。隊員はわたしの五兄の五郞の十三歳を最年少に、四兄の四郞が十五歳、その他藩中の二十歳以下の少年ばかり二十名でした。詳しい記録のないのが殘念ですが、この少年隊の奮戰はほんたうに、目ざましいものだつたさうです。
 隊長の靑山はじめ十數人の少年たちが戰死してをります。
 隊長の靑山は年こそ二十三歳の若者ですが腕がなかなかしつかりしてゐて、藩の指南番砂地先生の代稽古を勤めてゐたくらいでした。
 その靑山の働きはたいしたものだつたのです。靑山は敵中を驅け囘つて右腕は斬られ、大刀は折れて全身血を浴びてゐたさうです。味方の者が、
「右腕をやられては駄目だ、後ろにさがつて手當したらどうだ」
 と、いつたさうですが、靑山は、
「まだ左腕がある。力のある限り戰ふまでだ」
 と、いつて小刀を左手に握つて敵の中に斬り込んで行つたのですが、それきりつひに姿を見せなくなつたさうです。
 靑山は敵を斬りまくつて十一人まで倒したさうです。十二人目に出會つたのが、官軍の總大將であつた野津大將だつたのです。

◆野津さんに殺されたあつぱれな隊長
 その時、靑山は大聲で名乘りをあげて野津大將に斬つてかかつたのですが、さすがに靑山も野津さんを倒すことは出來ませんでしたが、野津さんの肩に一太刀だけ斬りつけたさうです。
 野津さんはその時の靑山の奮戰ぶりに非常に感心させられて、その後、靑山たちの二十周年記念日にわざはざ二本松に來られて、靑山の戰死した古戰場の增方に碑を建てられました。その碑は今でもあるはずです。
 增方の戰ひで四郞、五郞の二人の兄は命からがら逃げて來ました。
 母は逃げて來た兄たちの姿を見て、泣いて叱つたり喜んだりしてをりました。
 かうして、二本松城もいよいよ落ちることが決まつてしまひました。
 私たち一同も城を枕に討死することになり、忘れもしません七月二十八日でした。
 いよいよ最後の時だといふので、私たちは死出の晴れ衣を着せられました。
 三十人ばかりゐた家來や雇人たちにはそれぞれお金や形見のものを配つて、私たちの最期を見屆けるやうに申し付けました。
 そのころ、雨が毎日毎日降り續けて城下はまるで混亂の極だつたのです。ちやうど、けふこのごろのパリ〈ドイツ軍占領下の〉とでもいふところでせうネ――。
 ところが、いよいよ殿樣に殉死といふ間際になつて、藩主長國侯御夫妻が米澤にお立ち退きになることになつたから、殉死をせずに米澤に立ち退けといふお達しがあつたのです。
 官軍はもう間近に迫つて來るので、その夜、しかも雨の中を出發と決まりました。
 私たちは母に連れられ、篠つくやうな雨の中をわらぢを履いて米澤をさして出發しました。
 この路は城下から避難する人々で大變な騷ぎです。子供は泣き叫ぶ、雨は降るし、そして手さぐりで歩くやうな闇です。産氣づいた妊婦もあるといふ悲慘な有樣です。

◆雨の夜道、二本松落城の報に哭く
 敗け戰ほど、あわれなものはありません。
 途中、丹羽坂といふところのお寺で休んでゐました時に、城に火がついたといふ知らせがありました。見れば、二本松の空が赤々と雨の中に映つてゐるのです。母をはじめ私たち一同は、この時はじめて大聲を出して泣きました。
 三兄の治太夫がこの夜に城中で戰死したのです。治太夫は槍組で最後まで二本松城を守つてゐたのです。
 二本松城はかうして七月二十九日に官軍の手に落ちました。
 落城と決まつた二十九日の朝に、城内の三つのお金藏を開けて、中にあつたお金を全部、城下にゐた町人にまいてやつたさうです。
 翌日、私たちもどうやら米澤にたどりつき、丸屋といふ借屋にひとまづ落ち着きました。
 さきほども申したやうに、三春藩が官軍を手引きして二本松を攻めたといふので、二本松の者は三春藩をひどくうらんでゐたのです。
 ところが、私の家の女中頭のやすといふのがその三春のものなのです。やすはそのころ四十くらゐでしたが、二十歳ころから、私の家に雇はれてゐた家族同樣のものでした。
 二本松少年隊に參加して、增方の戰ひで命からがら逃げて來た五兄の五郞は、まだ十三歳でしたのになかなか強氣な性でした。

◆怒る兄の成敗に殊勝な下女の覺悟
 やすが三春の生まれだといふので、米澤の丸屋に着いたその晩、
「やす、ここに來ゐ」
 と、呼びつけました。そしてやすに、
「お前は三春の者だ、三春は今度の戰でどういふことをやつたか知つてゐるだらう。お前は永い間うちにゐたが、三春の者であるからには生かしておけない。俺が成敗してやるから、衣類を着替へて來なさい」
 と、いふのです。
 五郞の語氣のはげしさにわたしたちはハツと驚きましたが、五郞の前に座つてゐたやすは少しも騷がないで、
「着替へと申しましても、着のみのままで、御座いません」
 と、答へました。
「それでは、顏だけでも洗つて來なさい。その顏では死んだ後で見苦しい」
 と、五郞がいひますと、やすは、
「はい」
 と、返事して靜かに顏を洗ひ髮を直してゐるのです。
 この間答を隣の部屋にゐて母が聞いて五郞を呼びつけました。
「五郞!お前はやすを斬る資格がありますか。どうしてもやすを斬りたければ、まづお前が切腹してから後にしなさい」
 と、叱りました。
 母のこの諫言に五郞も深く恥ぢて、この騷ぎはそのまま終はりとなりました。
 米澤に半月ぱかりゐて、わたしたちは懷かしい二本松に歸りました。
 しかし、二本松には城もたければ、城下は燒野原でした。官軍が火をつけて燒いてしまつたのです。
 私たちは寢る家も無いのでした。家老職の權門にあつた私たち一家は、いまは無一文のただの武士となりはててしまひました。
 御維新は私たちの運命なんかに關係なく、ぐんぐん進みました。
 あのころを思ふと、現在の私と、あのころの私のどちらがほんたうなのかわからなくなるやうな氣がします」
◇     ◇
 ふじさんの長い物語りはここで終はつた。側でじつと聽いてゐたふじさんの夫、十太老は感慨に堪へないやうな面持ちでその後を受けて話を續けた。

◆賊名は被れど殉忠は賞すべき隊士
「私はあの時、二本松城内の書取次、今でいふ給仕として仕へてをりました。白河の戰ひがはじまると、武士たちがどんどん戰線に出てしまつたので城内はガラ空きでしたが、戰ひが激しくなるに從つて、負傷者が擔ぎ込まれて來る。早馬、早駕籠が毎日毎日引つきりなしに來て、城内はまつたく凄慘な日が續きます。
 私などのやうな子供は用がなくなりましたが、奧院では殿樣を御中心に會議が續きました。
 白河が落ちて、官軍がいよいよ二本松に攻めて來るに從つて、城内の混亂はいつそうもの凄くなりました。みんな城を枕に討死する覺悟を決めてゐたのです。形勢が切迫するにつれて、私たちの食事を世話する者もなくなつて、私は郡代の丹羽新十郞樣から辨當をもらつて食つてをりましたが、落城と決まつた七月二十七日に城から歸されました。
 子供ながら私も一緖に城で死なうと思つてゐたのに、歸れといはれたのが殘念で、郡代の新十郞樣に、
「是非私も一緖に置いて下さい」
 と賴みましたが、新十郞樣は、
「お前は早く家に歸つて、兩親と一緖に米澤に逃げろ」
 と、いふだけで私の賴みを聞いてくれません。私は口惜しさに泣きながら家に歸つて來ました。そしてその夜のうちに米澤に立ち退きました。
 郡代樣は、この夜敵陣に斬り込んで壯烈なお最期をなさいました。米澤へ行く途中で、私は郡代樣の戰死を聞かされました。私は母の手にすがつて悲しさのあまり大聲で泣いたのでした。
 かうして奧羽勢は散々に敗れ、その上賊名を受けました。しかし敗れた人々の忠義の心は立派なものです。
 ことに、二本松少年隊の悲壯な最期を、今の世の中の若い人たちに知らせてやりたいと思ひます。
 八十年昔と現在、あまりにも時代は變はつてをりますが忠義の心は一つです」
 と語る十太考の兩眼には、とても八十三歳の人とは思へぬ烈々とした氣魄が燃えあがつてゐた。



解説

 八歳か九歳かで体験したことを八十歳を過ぎてから語っているので談話の誤りを指摘するのは心苦しいが、事実誤認が多い。
 二本松より先に会津が降伏していたというのは大きな誤りだ。おそらく「こうあって欲しい」と思う願望が「こうだった」という誤った記憶を生じさせている。二本松藩が孤立無援の戦いを強いられたのは事実で、隣の会津や仙台は援軍を出さなかった。味方に見殺しにされた辛い事実を「もし、会津が先に降伏していたのなら仕方のないことだったのだが……」という妄想につながり、記憶のなかで現実と混同されたと想像できる。
 もうひとつの大きな誤認は、青山助之丞を少年隊の隊長としていること。実際の隊長は木村銃太郎で、その木村が戦死したのち、少年たちを救おうとして青山が駆けつけた。ただし、青山と野津道貫との死闘は事実であり、野津が建てた記念碑も現存している。
 この記事では、記者の不勉強も指摘せねばなるまい。冒頭で大政奉還について「薩長土肥の陰謀」としているが、陰謀かどうかはさておき大政奉還を徳川慶喜に提案したのは薩摩、土佐、安芸の三藩だ。長州藩は加わっておらず、肥前佐賀藩が新政府側に立つのは戊辰戦争の開戦後のこと。
 ほかにも奥羽列藩同盟の盟主を会津藩だとしているが、会津藩は同盟に加入していない。会津藩と庄内藩の救援を目的に結成された同盟なので、会津藩は助けられる側であり、盟主として各藩に指図する立場ではなかった。
 日本人の多くは、判官贔屓というような敗者に共感する感性を持っており、落城悲話は心に強く訴えるものがある。だが、この記事に見るように伝説化しがちであることに留意したい。巷間「勝者は歴史を都合よく変えてしまう」というが、むしろ敗者の側が事実を歪ませて伝えてしまう問題の根は深い。


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