『明治天皇紀』第五 p279-280 明治一四年二月一九日条
十九日 曇天、午前六時騎馬にて行在所を発したまふ、土方久元・山岡鉄太郎・近衛士官二人・侍従二人騎して従ふ、約一里半にして宇津貫村に著御、歩して御殿峠に登らせられ、山上天幕内の御休憩所に入りたまふ、
午前六時出発ということは、それ以前に朝食を済ませられたことでしょう。おともした土方久元は旧土佐藩士で坂本龍馬や中岡慎太郎と親しかった人です。山岡鉄舟は旧幕臣で、西郷隆盛の宮廷改革の際に10年間お仕えする約束で宮内省入りし、いまや、その西郷は逆臣とされたうえで世を去りましたが、鉄舟は律儀に約束を守っていました。
宇津貫村は八王子の宿場から南にあり、標高100~200メートルの低山が連なる地域の谷戸(ヤト=尾根に挟まれた谷間)に形成された集落でした。その集落まで天皇さまは馬に乗って行き、そこからは歩いて御殿峠に登られました。かつて明治元年の大坂行幸の頃までは「天皇さまは土を踏まない」とまでいわれたものでした。めったに外出はなさいませんし、御所の中でも建物から建物まで乗り物に乗られるので、土を踏まなかったのです。時代が移り変わったことは、こんなことからもわかります。
御殿峠は杉山峠ともいい、明治一五年の迅速測図には杉山峠と記されています。かつて山上に何某の御殿があったとの伝承から御殿峠ともいうようです。標高は約200メートルで、その山上に天幕を張り巡らした休憩所がしつらえられました。谷合家に用意を命じた椅子50脚は、ここで用いられたものでしょう。
午饌畢るの後、宮内省・近衛士官及び村民百余人等が数箇所に於て兎狩を行ふを天覧あらせらる、二十八羽を捕ふ、
明治天皇紀の記述は簡潔ですが、その行間には様々な小さなドラマが潜んでいます。地元に伝わった逸話を大正14年に収録した『明治天皇駐蹕記』によると、
十九日(土曜薄陰)御殿峠附近の御猟は、まだうら寒く雪さへある山路を、先帝には片倉綱木門前で畏くも御草鞋をめされ、勇しく峠方面へ赴かせられたさうである。其の時宇津貫、片倉、小比企あたりから多数の人々が奉仕して佐宗文次郎、恩曽源右衛門等よく勤め、相当の獲物があつて、兎などは生きたまま函入にして、お持たせになつたといふ。
天野佐一郎『明治天皇駐蹕記』大正一四年 私家版 p24
このとおり、兎狩りの主体となったのは近隣の村民たちでした。守衛に任ずべき近衛兵は用いていません。比志島義輝の主張は、ここでも活かされていました。獲物の兎は生け捕りで、生きたまま箱入りにして持ち帰られ、赤坂仮御所で放し飼いになさったそうです。
このとき『明治天皇の御杖』によると、山岡鉄舟も素手で兎を捕まえました。
此の日の事であつた。
山岡宮内大書記官も御側に供奉してゐたが、偶一匹の兎が、駆り立てられて逃げて来た。所謂脱兎である。それが突然山岡先生に飛びついてきた。先生は日頃の剣禅の心得があるから些も驚かずそつとこれを抱き留め、生捕りにし直に、 聖上の天覧に入れた。 聖上にはその兎が殊の外毛なみも美しく、姿優なるを愛でさせられ、その後永く宮中に御飼育あらせられたとの事である。
児玉四郎『明治天皇の御杖』昭和五年 東山書院 p30
いかにもファインプレーのように書かれておりますが、御所で近衛兵を用いた兎狩りをしたときは網など用いなかったという比志島の証言もありますので、『明治天皇紀』に特記するほどのことでもなかったのでしょう。ことに山岡は剣の道で無刀流という流派を興したほどの人ですから、その極意で兎を捕らえるのは、なにやら反則のようにも思えます。ただ、この翌日に山岡は天皇さまから御褒美らしきものを賜ることになるのでした。
ともあれ28羽の兎を捕らえ、この日の兎狩りはおわりました。『明治天皇紀』の続きを見て行きましょう。
畢りて御休憩所に復御し行厨を取らせらる、既にして日暮る、即ち炬燭を秉らしめ午後七時四十分騎馬にて還幸す、山上より行在所に至る間路傍に焚くに燎火を以てす、是の日勢子を奉仕せる村民に金員を賜ひて其の労を慰し、獲る所の兎を悉く東京に致さしめたまふ、
兎狩りを終えて御休憩所で食事をなさると、もうすっかり日が暮れていました。行在所までの沿道では火が焚かれ、その灯りのなかを騎馬の天皇さまが進まれまして、戻られたのは午後七時四十分でした。駆り出された村民たちには慰労金が配られ、獲った兎を仮御所へ送り、長い一日が終わりましたが、兎狩りは終わりません。
又二十日東京に還幸あらせらるゝ予定なりしが、明日は連光寺村に於て兎狩を御覧、畢りて府中に駐輦あらせらるゝ旨を仰出さる、
天皇さまは兎狩りの一日延長を命ぜられ、連光寺村で兎狩りを御覧になったあと府中に一泊なさることになりました。

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