武士道の基礎知識 | 大山格のブログ

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おもに歴史について綴っていきます。
実証を重んじます。妄想で歴史を論じようとする人はサヨウナラ。

 現代人は「サムライ」に対して限りないロマンを抱いている。そして禁欲的で努力を惜しまぬスポーツ選手などにサムライのイメージを重ね合わせたりする。こうしたイメージのなかのサムライは民族の誇りであり、現代人の憧れでもある。
 今日のサムライのイメージを決定づけたのは、新渡戸稲造の著書『Bushido: The Soul of Japan』であろう。欧米向けに英語で書かれ、のちに日本語訳が出版された同書によると、武士道とは
――要言せば即ち武門の教訓なり、武人階級に伴ふ尊貴の責務なり
 と、定義している。さらに新渡戸は同書のなかで武士という高い階級に相応しい責任を担うことが武士道であって、武士は自分が属する社会に貢献すべき立場にある。そのためには生命を抛つことすら厭わない。ゆえに武士は生への執着を臆病、あるいは卑怯と見なす。このような死生観が武士道の根源にあると説く。
 武士の死生観といえば、ただちに
――武士道と云ふは、死ぬ事と見付けたり
 という『葉隠』の一節が思い浮かぶ。その文言の強烈さは「武士とは死をも恐れぬ者」との印象を人々に植え付けている。
 このような現代人の武士道に対する認識は、筆者から見て歴史上の武家社会の道徳観とは異なるものであって、甚だしい誤解を含んでいることを指摘したい。
 一般的な認識からすれば武士と侍は同じものであり、「侍」という字は何者かに仕える人を意味している。つまり、武士とは主君に仕える立場の人である。古来、武士と主君とは「御恩と奉公」で主従関係を保っていた。古代から戦国時代の半ばまで、武士は個別に所領を持ち、その領有権を主君に保証されることを「御恩」と称した。家督相続によって先祖伝来の所領を受け継ぐ場合は本領安堵、戦功を挙げ主君から新たな所領を与えられた場合は新恩といい、そのいずれの「御恩」に対しても武士たちは軍役をはじめ、あらゆる負担を担って主君に「奉公」したのである。また、武士たちは領民から年貢を徴収する見返りとして野盗の侵入を防ぐなどして所領の秩序を保った。
 このように武家社会における主従関係とは主君と武士との契約に基づくものであって、同様に領民との関係も一種の契約と見なして良いものである。それらの関係を保つために武家社会のなかで醸成された規範こそが、武士道の原点であろう。中世までの武士は幕府や大名に従いながら、庶民の上に立って所領を経営した。そうした封建秩序を維持させたのは、武士たちの内面にある「尊貴の責務」を担うという個々の倫理感ではなく、むしろ武士たちに権益を与える社会構造が彼らに責務を担わせたといえよう。
 その責務とは主君に対することだけでなく、領民に対することも含まれた。たとえば守護大名が暴政によって領民を苦しめれば、地侍は一揆を起こして反抗した。それもまた武士たる者のとるべき「道」である。つまり武家社会における忠義のあり方は条件つきで有効となるのが本来のものであり、場合によっては大名に反逆することも領民に対する武士の責務であったといえる。
 中世の武士たちは「一所懸命」を唱えた。先祖伝来の所領を次代に伝えるため、生命を賭してまで戦うという意味である。この場合、次代を継ぐのは必ずしも子孫ではなく、先祖代々の祭祀を継承するかぎり養子でも良い。家系の維持は武士たる者の最大の関心事で、なんとしても断絶を避けようとした。そして、領民との間に代々にわたる信頼関係を築き、戦国時代に至るまで地に根を生やしたが如く懸命に「一所」を守り続けたのである。また、地侍は自ら田畑を耕作する例が多く、いわば兼業農家であった。それゆえ地侍と農村とは濃密に関わりあい、農村の代表として武士の身分を保っていた面もあった。
 ところが戦国時代の後期に入ると地侍らは次第に戦国大名の家臣団に組み込まれ、先祖代々の所領から引き離されるようになった。いわゆる兵農分離によって武士たちは軍役に専念する職業軍人にさせられ、固有の所領を離れて大名の居城近くに集住するようになる。そして江戸時代に入る頃には大多数の武士が所領を持たない給与所得者になった。田畑を耕すことがなくなった武士は農村と疎遠になり、ただ主君との関わりだけで武士という身分を維持したのである。
 新たな秩序が形成された近世の武家社会で、武士たちは新たな職業倫理を植え付けられた。江戸幕府が政策的に広めた朱子学によって、武士たちは無条件で主君に忠義を尽くすものと教育され、旧来の御恩と奉公によって形成された契約的な主従関係は否定されるようになった。
 こうした武家社会の変容のなかで『葉隠』が生まれた。江戸時代の武士には「懸命」に守るべき所領がないため、死生観もまた変容せざるを得なかった。このような社会変化を思い浮かべるとき
「武士道とは、つまり死ぬことだ」
 という『葉隠』の激越な文言に結びつけて考えたくなる。しかし、その真意は生き方を説くものであって、死に方を論じたものでは断じてない。
 この『葉隠』は永らく禁書の扱いを受け、一般に流布したのは明治維新の後であって、それまでは佐賀藩で写本のみが伝えられた。ゆえに成立年代も享保元年(一七一六)から寛延元年(一七四八)までの間で諸説ある。いずれにせよ江戸時代の中期、戦乱の時代が過去のことになっていた時期にあたる。
 その内容は隠居した佐賀藩士の山本常朝の談話を門人の田代陳基が筆記した体裁をとり、武士が主君に仕えるための心得を説いたものである。そのなかで目を引くのは
――朝毎に懈怠なく死して置くべし
 という教訓である。これは「毎朝、忘れずに死んでおけ」としか読めないのだが、その真意は実際に死ねということではない。
――我人、生くる事が好きなり
 と、山本自身にも生への執着があることを吐露する部分もある。つまり死んだつもりで一日を過ごすべきだと論じているのであって、生命を抛つことを賛美したものではない。
 激越な表現を含む『葉隠』には、当時の主流であった儒教的な道徳観を批判する部分があり、そのために禁書とされたのである。だが、武士階級の存在意義を見失って苦悩していた佐賀藩士らは、戦わない武士として生活していく心がけを説いた『葉隠』を写本によって広め、ついには必読の書として『鍋島論語』という別称で呼ばれるほどになった。それが維新後になって、佐賀のみならず全国にまで紹介されることになったのであるが、先述のとおり一部の文言のみが注目されたことから現代でも『葉隠』の死生観は誤解されたままなのである。
 戦いのない太平の世に生きた武士たちは、新渡戸が『Bushido 』で著述したとおり神道、儒教、仏教の倫理観を元にした道徳教育を受けた。それらの尊い理念は、まことに崇高なものといえるのだが、はたしてどれほど武士たちによって実践されただろうか?
 太平の世の武士道を知るために、その最終局面の様子を見ておこう。幕府は海禁政策を祖法とし、外国船打払令を発しており、天保八年(一八三七)に米国の商船モリソン号が日本人の漂流者を送り届けに来た際は、沿岸から砲撃して追い返した。この事件があればこそ、米国は蒸気軍艦を並べて日本に開国を迫ることになったのである。かくして嘉永六年(一八五三)にペリー艦隊が江戸湾に来航、武士も庶民も大恐慌に陥った。
 幕末の武士たちは武具も満足に整えておらず、黒船の威容に腰を抜かすなど戦いに臨む覚悟もなかった。これこそが近世における武士道の実態であった。戦うべきものではない非武装の商船を相手に虚勢を張りながらも、まさに日本を恫喝しに来た蒸気軍艦に対しては戦わずして屈したのである。
 のちに戦国武将の逸話集『名将言行録』を編纂する岡谷繁実は、嘉永七年の条約交渉の会見場を見て「慨嘆ニ堪ヘズ」と自伝『浮世能夢』に記している。
 同時期、岡谷は吉田松陰と出会っている。その際「面垢ツケドモ洗ハズ、衣破ルレドモ意トセズ乱髪蓬頭」といった近世の儒教的な武士道にそぐわない吉田の風体を咎めた。が、吉田は「丈夫ハ掩棺論定マルモノナリ」と、忠告を聞きいれなかった。男の価値は棺に蓋をしたときに決まるというのである。吉田が発した一語は、死を賭して事をなす覚悟を示すものであった。ほどなく吉田は伊豆下田で密航を企てて未遂に終わり、獄に繋がれた。
 後日、事件の顛末を知った岡谷は、吉田の覚悟を見てとれなかった自分の至らなさを嘆いた。そして、この年から『名将言行録』を書き始めていることを思えば、幕末の武士たちの不甲斐なさに慨嘆しつつ、戦国の武士道こそ本来の武士のあり方であることを世に示そうとしたことがわかる。
 その後、明治二年(一八六九)の『名将言行録』初版刊行に至るまでの十五年間、岡谷は武士としてあらゆる立場を経験した。館林藩士としては家禄三〇〇石、中老にまで昇進するも失脚して藩を追われ、浪人してからは尊王攘夷の志士として活動、維新後は新政府の官員となるも知人の罪に連座して免官となり、廃藩置県まで僅かな期間ながら館林藩に復籍して家禄二四石という微禄を受けた。この間、岡谷は片時も『名将言行録』の原稿を離さず常に手元に置いていたといい、これらの経験は様々な立場の戦国武将を論じるうえで役立ったことであろう。
 この『名将言行録』には、品行方正な武将ばかりが紹介されているわけではない。表裏比興の者と呼ばれた真田昌幸も名将の一人に挙げられており、儒教的な観念論を差し挟む余地のない乱世に育まれた戦国の武士たちを生き生きと描いているのである。
 文中に採り上げられた人物に対する論評は少なく、名将たちの言行から何を学ぶべきかは読者それぞれが感じ取るように編纂されているのだが、岡谷は武士たる者が、戦うべきときには戦い、退くべきときは隠忍自重する本来のあり方を示したかったに違いない。
 慶応四年(一八六八)正月の鳥羽・伏見の戦いを発端とする戊辰戦争において、江戸開城によって戦争回避の可能性が現れた際、旧幕府陸軍から脱走して新政府への抵抗を試みる幕臣たちがいた。朝敵とされた徳川家の汚名を晴らすとして降伏恭順を拒否して戦った彼らを真の武士と讃える人は多いが、はたして武士道に適う行動であったといえるのか?
 明治時代の小説家、塚原渋柿園は旧幕脱走兵の一人であった。柴田宵曲が編んだ『幕末の武家』に掲載された塚原の回顧談によれば、脱走は忠義の顕れではなく「主家の眼からは不忠の臣」であったという。新政府への降伏恭順の方針が徳川家から布告され、新政府に抵抗することは主君の首に刃をあてるようなものだとする厳重な通達も出ていたが、
――肚裏に在るものは残念の二字きり
 という一時の感情に任せて「前後無茶苦茶に飛び出した」のが実情であった。塚原自身が「謂わば勝ってもその命に背いた咎で、切腹といわれても一言もないに、負ければ当然縛り首! ちと落着いた料簡から考えると、何の趣意で、誰のために、この命がけの難渋な戦争をするのか、わからぬといえば実にこれほどわからぬ事はない」と自己批判したとおり、厳しい教育を受けた武士たちも道徳や倫理によって感情を克服することは出来なかったのである。
 記事冒頭に掲げた新渡戸の「尊貴の責務」なるものは、武士道を西洋の騎士道に擬して説明しようとするものであり、新渡戸は「武士道」を自身の造語であるかのように論じているが、武士道の本質が神、儒、仏の三道融和によって形成されたとする主張の骨子は、すでに山岡鉄舟が万延元年(一八六〇)に著した『武士道』なる書物で論じていた。同書では、武士道なる概念は中世から存在したが、それを初めて武士道と呼んだのは同書によることであると主張しており、新渡戸が武士道の起源を近世の観念論に求めていることと相違している。
 武士としての経験があったうえ、剣と禅を学んだ山岡に比べ、新渡戸は明治元年を数え七歳で迎えたため武士として主君に仕えた経験はなく、キリスト教徒でもあったゆえ、両書を比較する場合どうしても山岡の側に分があるように思えてならない。新渡戸は盛岡藩士の子として幼い頃から武家の教育を受けてきたには違いないが、彼自身が武士道を弁えていたかどうかを考えると甚だ心許ない。だが、武士道なるものを価値観の異なる西洋人に紹介したのは新渡戸の大きな功績である。
 明治末年になって『Bushido 』の日本語訳が出版されると、多くの読者を獲得した。文明開化によって西洋の価値観が入ってきた影響から、新渡戸の西洋向けの論旨が、むしろわかりやすかったのであろう。また、滅んでいった武家社会に対する憧憬もあって好評を博したものと思われる。
 しかし、同書によって近代の日本人が実際には廃れていた武士道を実在のものと誤解し、さらに『葉隠』の死生観をも誤解したことは大きな悲劇を生んだ。第二次大戦で散華した若き特攻隊員に生命を抛つことを求めたのは、武士道に対する誤解から生じたことである。
 いま、新渡戸の『Bushido: The Soul of Japan』を再評価するならば、副題に着目すべきであろう。Soul of Japan は大和魂と読める。山岡や新渡戸が武士道の根源と考えた神、儒、仏の三道融和による道徳観は、実は武士階級のみならず庶民も備えていたものである。庶民も「世間様に対して申し訳が立たない」、「神仏の罰がくだる」というような平易な言葉で倫理を論じてきた。そして、現代においても日本人は激甚災害に際して秩序を守る公徳精神を備えている。
 そう考えれば、新渡戸の著作は日本人全体が有していた倫理観を説明しているともいえよう。武士道と大和魂とを同義とみなすなら、生まれ素性に関わりなく日本人はみなサムライの心を持っているともいえるのである。

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