近藤勇・流山前後18 | 大山格のブログ

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おもに歴史について綴っていきます。
実証を重んじます。妄想で歴史を論じようとする人はサヨウナラ。

北関東の不穏
慶応四年三月十九日(グレゴリオ暦1868年4月11日)


 この日、東山道軍所属の因州(鳥取)、土州(高知)、薩州(鹿児島)、長州(山口)、大垣の各藩に対する戦捷の賞詞が発せられました。
     因州 土州 薩州 長州 大垣
右、甲州勝沼駅、武州羽丹生村両所に於いて、賊徒屯集、砲銃を以て要地に拠り官軍をあい抗し候ところ、勇戦を遂げ、たちまち掃撃に及び、殊に初戦の儀、三軍の気鋒をも興し、現地の情実、叡聞に達し、御満足に思しめされ候(以下略)

『復古記』第三冊p10
 勝沼と、武州羽丹生村での勝利は天皇様も御満足である、という意味です。この武州羽丹生村というのは羽生の間違いでしょうし、実際に戦いがあったのは野州梁田村(足利市梁田町)でした。梁田の戦いは三月九日のことで、勝沼で戦いが起きたあとのことですから、東山道軍は問答無用で古屋作左衛門(高松凌雲の実兄)が率いていた洋式歩兵部隊に奇襲攻撃を仕掛けています。敗れた作左衛門らは北方へ逃れ、いったん会津に入ったのち、新潟方面へ転戦することになります。
 梁田の戦い以前の二月なかば、作左衛門は野州方面に逃亡した旧幕府陸軍の脱走兵を連れ戻す=鎮撫に力を尽くしていました。その立場は甲州の大久保隊と似ています。東山道軍に襲われたときに率いていたのは旧幕府陸軍第六聯隊の正規兵約600名に、説得して連れ戻そうとしていた脱走兵たちを加えた部隊でした。作左衛門の指揮下には変名を用いた複数の会津藩士が幹部として加わっていたことがわかっています。
 旧幕府陸軍の脱走兵たちは、たとえていうなら巨大企業のアルバイトです。正社員といえるのは旗本や御家人であって、歩兵の多くは一時的に金で雇われた身分でした。会社の倒産が秒読みに入って、このさきも雇用が継続して賃金が支払われる保証はありません。ならばいっそ武器を持ったまま脱走して荒稼ぎしようと企む連中もいたのです。

 同じ日、野州の大田原藩(大田原市の西部)が新政府に願い出ていた警備活動が許可されています。その大田原藩の願書から、脱走兵の様子がわかります。
今般、反賊の余党、脱走の歩兵ども、撒兵とあい唱え、人数およそ四百人余り、兵器あい携え、奥州筋へ通行の趣き、あまつさえ途中ところどころ農商家などへ立ち入り、猥りに金財無心申しかけ、強奪同様の所業もこれあるやにあい聞こえ、なにぶん多人数と申し、容易ならざる儀に付き(以下略)

『復古記』第三冊p14
 結局のところ、脱走兵らは大田原領内に侵入しなかったのですが、なにせ一万石ちょっとの小藩のことですから400の洋式歩兵は大きな脅威です。そこで近隣の領外まで含めた警備活動をしたいと願い出たわけです。この願書によると、いったん脱走兵らが江戸方面に引き上げた様子が出て来ます。それは作左衛門の説得によることでしたが、大田原藩は「何時何方へ出没、いかなる挙動御座候やも計りがたく」と、引き続き警戒していました。

 また、このころ野州では一揆が頻発し、やがて藩や旧幕府領の境界を横断した「野州大一揆」と呼ばれる巨大な暴動に発展していきます。そして、それが意外なことに近藤勇の命運を大きく左右することになるのです。



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