慶応四年二月十九日(グレゴリオ暦1868年3月12日)
この日、松平春嶽は再び慶喜討伐の中止を建議します。その前日、慶喜の奏聞状が春嶽のもとに届いていました。
慶喜一身ノ不束ヨリ生候儀ニテ 天怒ニ觸候段、一言之可申上樣モ無御座次第
十一日夜に慶喜が臣下に示した諭達書と同じ文面で、なにひとつ弁解しない姿勢を示しています。
此上如何樣之 御沙汰御座候共、聊無遺憾奉畏候所存ニテ、
この部分も諭達書と同じで、どのような御沙汰があろうとも従うことを伝えています。しかし、討伐については猶予を求めました。
弊邑之儀ハ、四方之士民輻輳之土地ニモ御座候得者、多人數中ニハ、萬一心得違之者無之トモ難申、
江戸は様々な地域から来た多くの人々で混み合う土地柄なので、大勢のなかには「心得違い」をする者がいないとは限らないというのです。この「心得違い」とは、討伐軍への抵抗を試みることを指しています。
何卒官軍御指向之儀ハ暫時 御猶豫被成下、
だから討伐軍を差し向けるのは、暫く猶予してくださいと懇願しています。それは慶喜が命惜しさから申し出たことではありません。
臣慶喜之一身ヲ被罰、無罪之生民塗炭ヲ免レ候樣仕度、
慶喜ひとりを罰することで、罪のない一般庶民が戦争の苦しみから免れるようにしたいからだというのです。
『復古記』第二冊p421
また、奏聞状の副書では、松平容保をはじめとする旧幕府側の要人たちにも言及しています。
松平肥後竝要路之役々、同樣奉恐入候ニ付、御處置奉伺候心得ニテ爲愼置申候間、夫々御沙汰被成下候樣奉願候、
それらの人々も慶喜と同様に恐れ入っており、おとなしく(朝廷の)御処置を伺うというのです。
『復古記』第二冊p422
この奏聞状をもたらした慶喜の使者とともに、春嶽は参内しました。朝廷側から慶喜の使者に応対したのは、明治天皇様の外祖父にあたる中山忠能でした。
無程明日諸卿總參 內之儀ヲ被 仰出シカハ、定テ此件之 朝議ニモ可有之
『復古記』第二冊p423
会見後、朝廷は公卿たちに総参内を命じます。それを春嶽は慶喜の奏聞について協議されるものと見ています。事態を楽観していたわけです。
春嶽の手元には慶喜の奏聞状のほか、幕臣たちが慶喜のために書いたものと、松平容保の老臣たちが起案した、あわせて二通の哀請書が届いていましたが、春嶽は慶喜の奏聞状のみを朝廷に提示し、ほかは春嶽の一存で握りつぶしました。
徳川慶喜家来中という差出人名の哀請書には徳川家の「祖先之勤労」を勘案して欲しいという内容を含んでいました。それを主張してしまうと、いっさい弁解しようとしていない慶喜の奏聞状に比べ、反省の度合いが違って見えます。
会津藩の家老が連署した哀請書に至っては、文久三年に孝明天皇様が容保に与えた宸翰(天皇自筆の文書)の写を添えていました。
堂上以下、暴論を疎(つら)ね、不正の處置、增長に付……
『復古記』第二冊p425
という書き出しの、いまでは世間によく知られた文書ですが、本来は私信ですから、詔とは異なって世間に公表されるべきものではありません。当時の会津藩としては大事に隠し持っていた切り札だと思っていたかもしれません。
それを見た春嶽は、どう思ったでしょう。宸翰は容保に与えられたものですから、朝廷に差し出しても慶喜の立場を良くするものにはなりえません。立場が良くなるとすれば、その対象は容保だけなのです。
封建社会では「臣子の過ちは君父の罪」だといいます。慶喜が臣下の過ちを自分の罪として一身に引き受ける態度を示したのに対して、臣下である容保が慶喜の罪を自分の過ちとして引き受ける態度を示していたなら美談になったところでしょうが、そうではなかったのです。春嶽が哀請書を握りつぶしたのは、そんな事情からかと筆者は想像します。
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