維新の胎動01 | 大山格のブログ

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おもに歴史について綴っていきます。
実証を重んじます。妄想で歴史を論じようとする人はサヨウナラ。

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明治の原点
 明治という時代の担い手たちには、大きな課題があった。旧幕府から受け継いだ不平等条約の改正である。発足以来、明治新政府は条約改正を何度も試みては挫折を繰り返した。欧米列強が日本を非文明国と見なしたためであった。ゆえに明治人は近代化に取り組み、工業をはじめとする産業を振興し、軍事力を強化した。そのいずれもが国際社会に日本を文明国として認めさせるためである。そして、ようやくにして関税自主権を回復できたのは明治四四年(一九一一)のことで、日本を野蛮な国と見なしていた列強に対等の権利を承認させるに至るまでの道のりが、すっぽりと明治時代に収まっている。
 明治維新による急速な近代化は列強の目を驚かせ、列強の圧迫に苦しむアジア諸民族を勇気づけた。この世界史的にも重要な明治維新について考えるには、まず幕末の動乱に目を向ける必要がある。


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動乱の時代
 いうまでもなく、幕末の発端はペリー来航にある。阿片戦争が記憶に新しい時期のことであり、黒船の威容は日本中を震撼させた。蒸気軍艦に対抗する手段がない以上、幕府は祖法であった海禁政策を捨て、さらには不平等条約をも締結せざるをえなかった。貿易が開始されると経済は大混乱に陥ったが、関税自主権を持たない日本にはなす術がなかった。生活に苦しんだ人々が攘夷論を過熱させたのは当然のなりゆきであったろう。
 幕府は攘夷派を弾圧によって押さえ込み、攘夷派はテロリズムで対抗した。果てのない殺し合いが続くなかで公武合体が試みられ、皇女和宮と将軍家茂の政略結婚に漕ぎ着けたが、かえって攘夷派の反発を強めてしまう。やがて攘夷派は幕府に攘夷の断行を要求するのではなく、幕府を倒して新政権を樹立し、そのうえで攘夷という大目的を成就させることを考えるようになった。だが、その攘夷という目的も列強の実力を知るにつれ変質を余儀なくされ、最終的には日本の自主独立を守ることのみを目的とする大攘夷論に到達し、やがては明治政府の開化政策に繋がった。しかし、大攘夷論は旧来の攘夷論と対立し、さらなる動乱を招いてもいる。


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新政権樹立に抱いた淡い期待
 幕府官僚のなかには収拾のつかない動乱を見て幕藩体制の限界に気づいた人々がいる。その代表格が大久保一翁と勝海舟であった。政権を朝廷に返還し、古代の天皇親政を再現しようとする「王政復古」を名目としながら、諸藩による公議会を設立し、新たな統一政権を形成しようとする考え方は、彼らの発案によるものだが、幕府の内部には受け入れられず、松平春嶽らに引き継がれて公議政体論と呼ばれるようになった。
 一方で、薩長同盟の締結を機に武力による倒幕を目指す動きも活発になっていたが、幕府から朝廷への政権の返還=大政奉還と、王政復古というスローガンは、大筋において倒幕派も妥協できるものであった。倒幕派が描いたシナリオは京都御所周辺でのクーデターまでであったが、それが大規模な内戦に発展した場合は列強の介入を招きかねず、危険であった。ゆえに倒幕派は大政奉還を足がかりに徳川氏の八〇〇万石に及ぶ所領を朝廷に返還することを要求し、それを拒絶されれば改めてクーデターを決行する方針をとった。
 公議政体派にせよ倒幕派にせよ、新政権の樹立にこだわったのは、旧来の政権を解体することで不平等条約を白紙に戻せるのではないかという淡い期待があってのことであった。だが、現実には戊辰戦争が勃発して政治決着路線が挫折したばかりか、列強は局外中立と引き替えに不平等条約の引き継ぎを新政府に要求した。列強の介入を恐れた新政府は、その条件を呑まねばならなかったのである。

第三極としての佐幕派
 倒幕派から無能無策と罵られた幕府とて、列強のいいなりになってばかりではなかった。文久二年(一八六二)に派遣した遣欧使節団は、新潟と兵庫(神戸)の開港延期を申し入れ、列強の承認を得た。だが、翌年の第二次遣欧使節団は、横浜鎖港を申し入れて拒絶され、かえって関税率の低減を約束させられる始末であった。これにはさすがに幕府も批准を拒み、国家としての意地を示している。こうした幕府による外交努力も攘夷派から見れば無能無策にすぎなかったのだが、はたして新政権を樹立させたとして、幕府よりも優れた外交手腕を発揮できるかどうかは未知数というほかなかった。そればかりか新政権が考え方の異なる諸藩を統制できるかどうかすら危ぶむ声もあり、幕臣や親藩譜代など幕府に連なる人々は無論のこと、朝廷や外様諸藩にも佐幕派は存在した。これらの佐幕派は、公議政体派と倒幕派が大政奉還路線で妥協したのに対し、あくまで幕府権力の回復を主張して他の二派と鋭く対立した。しかし、第二次幕長戦争に敗退したことで幕府の権威は大きく失墜しており、もとのような強力な支配を再現させることは望むべくもなかった。


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公議会の形成ならず
 各派の様々な思惑があったなかで、佐幕派以外は大政奉還を是認し、徳川慶喜もそれを受け入れた。のこる課題は、新政権の盟主に誰を据えるかであった。慶喜は徳川氏の八〇〇万石におよぶ領土と旧幕府陸海軍の軍事力を背景に、新政権においても絶対的な権力を確保しようとした。倒幕派は徳川氏の領土を朝廷に返上させ、それを新政権の財源に充てる考えであった。そうした政治的な綱引きは三〇〇諸侯を集めての公議会で行なわれるべきであったが、朝廷が諸侯を招集すると紀州藩の佐幕派は親藩・譜代の諸侯にボイコットを呼び掛けて対抗した。その結果、板挟みとなった諸侯の大半は病気などを口実として上京せず、公議会の形成は無惨なまでの失敗に終わった。そして、業を煮やした倒幕派は、無血クーデターという形で王政復古を断行するに至ったのである。
 このように、当時の日本人の意識は、議会制の意義すら理解できないレベルでしかなく、王政復古によって発足した暫定政権の前途は極めて多難であった。そして、財源となる領土を持たないまま、献金のみを頼りに佐幕派との戦争に臨んだのは、危険な賭であったが、新政府は戊辰戦争での勝利によって本格政権へ移行することができた。それゆえ軍事的に有力であった倒幕派が明治政府の主導的地位を占めることになったのである。

維新を問い直す
 戦前まで、維新史は尊王論を唱えた倒幕派を英雄視する皇国史観で語られてきた。その枷がはずされた戦後は、一転してマルクス主義から派生した唯物史観で語られるようになった。ただ、その多くは社会経済的な観点からの研究で、幕末における政治権力の本質を究明するには、より広い視野での考察が必要であると考えられている。
 たとえば急進的な近代化を目指した倒幕派にしても、薩摩藩あるいは長州藩という封建制の枠組みを利用しなければ戦争を遂行することが出来なかった。ここに潜む深い矛盾に対する明確な回答は未だ得られていない。ただひとついえることは、変革に取り組もうとするエネルギーは、卓越した創造力を生むということである。その意味において倒幕派は佐幕派に優っていた。そして、そのエネルギーは、ときに暴走しながらも、条約改正という大命題を見据えつつ、明治時代の全期間にわたって維持され続けた。このような大所高所から明治維新の意義を問い直すことが、いま求められているのである。

海禁政策
 いわゆる鎖国のこと。幕府は海外との交流を完全に遮断したのではなく、清国とオランダとは細々ながら交易が続いており、渡航禁止だけが徹底されたので、その実態にあわせて近年は海禁政策と呼ばれるようになった。

不平等条約
 日本と米英仏露蘭の各国との間に結ばれた修好通商条約のこと。列強に治外法権を認め、日本の関税自主権を放棄させられるという不平等な内容から、この名で呼ばれるようになった。安政五カ国条約ともいう。

経済は大混乱
 江戸時代の日本は国内交易のみによる自給自足のサイクルを確立させていた。不意に貿易が開始されたことで、絹、茶、米など輸出品目が国内で品薄となったのをきっかけに諸物価が暴騰した。

攘夷論
 ペリー来航以前にも「日本は神の国」と認識し、外国勢力を排除するべきだという観念的攘夷論があった。横浜開港以後、貿易によって経済が混乱状態に陥ると感情的に攘夷を唱える人々が急増し、異人斬りが横行した。

尊王思想
 幕府の官学であった朱子学では上下秩序を重視した。幕府は上位にある朝廷から政権を委任されたという建前を正当性の根拠としたので、朝廷を尊ぶ思想を否定できなかった。ゆえに幕府の開国政策に反発した攘夷派は、孝明天皇が攘夷を望んだことを根拠に尊王論を唱えつつ幕府に攘夷決行を要求した。

公武合体
 皇女和宮と将軍家茂の政略結婚によって、朝廷と幕府の融和を目指した政策。朝廷から交換条件として要求された攘夷決行を幕府が履行しなかったため、むしろ攘夷派の感情を逆撫でし、倒幕運動に向かわせてしまった。

大攘夷論
 開国を是認したうえで、貿易による利益で列強と対峙するに足る軍備を整えようとする考え方で、日本の植民地化を防ぐことを目的とした。外国勢力を完全に排除しようとする旧来の考え方は小攘夷論とも呼ばれる。

さらなる動乱
 薩摩藩と長州藩はともに攘夷論を唱えたが、性急な攘夷決行を無謀とする薩摩藩は、早期に攘夷を断行すべきだとする長州藩と対立し、禁門の変での武力衝突に至った。

薩長同盟
 福岡藩士月形洗蔵が提唱し、坂本龍馬らの周旋で成就した薩摩藩と長州藩の同盟のこと。両藩の提携によって、武力による倒幕が現実味を帯びはじめた。

第二次幕長戦争
 慶応二年(一八六六)、幕府は洋式歩兵を基幹とする陸軍のほか、紀州、彦根、熊本、越後高田などの諸藩を動員して長州藩を攻撃したが、長州勢の逆襲によって浜田や小倉を占領されてしまうほどの大敗を喫した。

旧幕府陸海軍の軍事力
 幕府の海軍力は、諸藩の艦船を結集させても対抗できないほど突出しており、陸軍も幕長戦争以後にフランス軍事顧問団を招聘して大幅に強化されていた。

無血クーデター
 王政復古発令の当日未明、薩摩、土佐、芸州、尾張、越前の五藩兵が御所の九門を封鎖した。その後、朝敵指定が解除された長州藩も兵を入京させている。

皇国史観
 戦前の思想統制下での歴史観で、あらゆる歴史を天皇中心に捉えようとした。日本を神国とみなす選民思想と結びつき、軍国主義を助長した。

唯物史観
 カール・マルクスの唱えた歴史観で、歴史学においても自然科学と同様な客観的な法則性を見いだせるとする考えである。あらゆる社会は必然的に共産主義へ向かうと定義されたが、共産国家の崩壊が現実となったいま、その論理は破綻している。


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