近藤勇を降す 02 | 大山格のブログ

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おもに歴史について綴っていきます。
実証を重んじます。妄想で歴史を論じようとする人はサヨウナラ。

 それで香川以下一同皆な皆な寢て仕舞つたが、私は無論一睡も仕ない、足輕坂本十郞(谷山の者だつたと思ふが存否を調べて見たが分らない當年十九才美少年)を連れて、密偵の報吿を受けたり、哨兵を見廻つたりして居た、ソーすると敵の密偵が二人やつて來たから、引捕へて見ると、江戶へ行く者だとのことだつた、敵の密偵なるは分つて居たのだけれども、私が流山方面の事に氣が付かずに居る樣子だと云ふことを、此二人に依つて敵に知らせん爲めワザと空とぼけて通してやつた、是れを知つた香川などは、八釜しく騷いで居たが、私はまた叱り飛ばして置いた。
 其翌三日は、流山の事など頓と忘れ果てたと云ふ風で、悠〻と粕壁驛へ移動し、猶四日は兵を遊ばせて其地に宿營し、其上
「明五日は古河へ前進する」
と前布令を仕て置いて、そして其午前四時に成ると、突然
「流山へ流山へ」
と號令した、私の意中を測り兼ねた香川などは、非常に驚いて不平だらだらで居た、私は兵隊が粕壁を出發すると同時に、直に單身馬を新利根川の渡場へ飛ばせ、親しく附近の情況を詳細に觀察した、そして拂曉近く兵隊が到著するを待ちて、直に前岸に渡してそこに駐止せしめ、坂本を一人連れて流山の偵察に行つた、村落內に一丁斗り這入ると、一人の泥醉した兵が(當日は一般に休暇を與へて酒をも許したと云)私を見て「大將大將」と呼ばはり乍ら蹣跚とやつて來る、直に之を捕へて案內者と爲し、近藤の本陣を見屆け、尙ほ其の配備を悉く見極めて一旦後方に引上げ、直に散開を命じ、全然村落を包圍した、其時敵は始めて氣付いたと見へ、大に狙狽して射擊を開始した、倂し形勢は既に味方の有利で敵は全く囊中の鼠だ、漸次夜は明け離れる、味方は盆〻勢よくなる、すると向ふの田圃の中を、二人の壯士が刀を拔いで打廻はし乍ら(軍使記號)一人の大將らしき人を護衞して、靜づ靜づと近寄つて來た、私の部下は是を見て
「ヤー近藤ぢャ近藤ぢャ、打殺して仕舞へ」
と騷ぐ者も有つたが(全躰此兵隊は非常に不規律で困つた、薩長土因などのに比すると丸でお話に爲らなかつた)、私は
「何だ、騷ぐな、八釜しい、近藤なんて高が一個の劍客ぢやないか、よしや斬り込んで來たつて屁でもない、默つてスツこんどれ」
と叱り乍ら、じつと樣子を見て居た(自慢ぢやないが、私は多少腕に覺があつた、近藤如何に達人だと云い條、私は左程とは思つて居なかつた)、すると三人は段〻と近づいて來て、壯士は刀を鞘に納め、丁寧に禮をして、
 大久保大和
と書いた名刺を差し出したので、私も下馬して禮を受け
「自分は東山道總督府副參謀有馬藤太と申す者で有ります」
と云ひ乍ら熟く見ると、成程紛れもない近藤で有つたが、私は矢張り大久保として應對したけれども、動もすると、近藤さん、近藤さんと口に出るので困つた、勿論向ふでも京都以來能く私を識つて居たのだ、彼は非常に恐縮した態度で
「朝早くから互に射擊を交へましたが、先き程、菊の御紋章の御旗を拜見して、初めて官軍だと分りました、存ぜぬ事とは云ひ乍ら、官軍に對して發砲したと申すことは、誠に申譯がない、今慶喜公に於かれても既に謹愼歸順を唱へて居られるのに、眞實申樣なき不敬でありました、私の方は既に射擊中止の命令を出しましたから、どーか攻擊を中止して下さい」
と申し出た、で私は早速承知し、射擊中止を命じ、而して彼を本陣に連れて來て
「御旗に對して發砲したからは、一應軍法を以て糺さねばならぬに依りて、兎も角も粕壁まで同行せられたい、向ふには參謀官も參つて居ります」
と云ふと、直ぐ「承知の旨」を答へた、

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