001 降誕 | 大山格のブログ

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明治神宮外苑聖徳記念絵画館 壁画
御降誕 / 高橋秋華 筆 / 侯爵 中山輔親 奉納 
嘉永五年九月二十二日 / 京都御苑内 中山邸


 嘉永五年九月二十二日(グレゴリオ暦1852年11月3日)、権大納言中山忠能の邸内に設けられた御産所で明治天皇は降誕あらせられた。宮内省臨時帝室編修局の編纂による『明治天皇紀』は「是の日、天晴れ、風静かなり」と、当日の天候を伝えている。
 生母は忠能の娘であり孝明天皇の側室であった慶子で、辰の刻(午前8時)頃に出産の兆候があらわれ、午の刻(正午)頃に無事出産した。

 父帝孝明天皇は、昼食の膳に向かいつつ酒杯を手にしていたところに皇子生誕の報を受け「天顔殊に麗しく、更に杯を重ねたまへり」と『明治天皇紀』は喜びを伝えている。

 ここで1852年頃の世界情勢に触れておきたい。すでに欧州では英仏両国の工業化が進み、大量生産の時代に入っていた。かの英雄ナポレオン一世が敗退したのちに築かれたウィーン体制による安定のもと、極東に市場を求めた英国は阿片戦争(1840-42)を仕掛けて清国に開港を強要した。

 1848年の「諸国民の春」と呼ばれる革命運動によってウィーン体制が崩壊すると、欧州各国間の緊張が高まった。その頃、オスマン帝国が衰退し、イスラム勢力圏はロシアに蚕食されつつあった。中央アジアのほかシベリアから沿海州へと極東でも勢力拡大を続け、東欧にも影響力を及ぼしはじめたロシアを警戒した英仏は、オスマン帝国の側に立ってロシアとの領土紛争に介入しクリミア戦争(1854-56)を勃発させた。

 その合間を縫うが如く、1853年に米国のペリー艦隊が浦賀に来航した。このとき、明治天皇は満年齢で零歳であった。米墨戦争(1846-48)の勝利によって南部諸州を獲得した米国は、新領土サクラメントで金鉱が開かれて空前の活況を呈しており、まさに日の出の勢いの新興国であった。その米国に開国を迫られた日本は、さながら蛇ににらまれた蛙といったところであったろう。

 明治天皇の降誕は、このような情勢のもとでのことであり、幕末維新の動乱期は、すぐそこにまで迫っていた。