イザナギの桃の実の物語 | ある女子大講師

イザナギの桃の実の物語

イザナギの桃の実の物語

1.誰だって人に生まれた以上、自分を主役に生きている。にも関わらず、それまでまた全く人として扱われなかった。ただのモブキャラ、ただの背景キャラ、ただの兵卒としてしか扱われなかった。そんな彼らをイザナミは人して扱い、やさしさと愛情と思いやりをもって彼らと接した。ここに古代から続く日本文化の根幹がある。

 

2.古事記に、イザナギのミコトが黄泉の国から逃げ帰る際に、「黄泉比良坂(よもつひらさか)の坂の本にあった桃子(もものみ)を三個取って、千五百の黄泉軍を待って擊ちました。すると黄泉軍はことごとく逃げて行きました」という記述がある。原文で「到黄泉比良(此二字以音)坂之坂本時、取在其坂本桃子参箇待擊者、悉坂返也」とある。桃の実3個で、1500の軍勢を追い返すなんて、できるはずない、みたいに言われがちだが、ここへくる前に、古事記は伏線を置いている。それが、「イザナミが、予母都志許売(よもつしこめ)を遣(つかは)して伊耶那岐を追わ令(し)めた」という記述だ。予母都志許売(よもつしこめ)は「此六字以音」とあるから、使われている漢字には意味がない。大和言葉で「よもつ しこめ」で、「よもつ」は「黄泉の国の住民」。「しこめ」は、日本書紀だと「醜女(しこめ)」と描かれているから、醜い人たちという意味になる。だからここは、黄泉の国から逃げ帰ろうとするイザナギを、妻のイザナミが「黄泉の国の醜い女達に追わせた、という意味になる。

 

3.ところがこの「しこめ」たち、逃げるイザナギが、食べ物を投げると、「追え」という命令も忘れて、その食べ物に食らいつく。ということは、「しこめ」たちというのは、貧しくて、ろくに食べ物も与えられず、ガリガリにやせ細った飢餓状態にありながら、上からの命令で「追え」と言われれば追うしかない、可愛そうな人々ということができる。だから、食べ物を与えられたとき、追うという使命も忘れて、食べ物に取り付いていく。哀れな話だが、いまでも現金をばら撒けば、どんな悪事でも、それに飛びつく人たちがいる。そういう人たちは、目つきがだんだんおかしくなる。現金をばら撒かれて強制動員される人たちもいる。やはり目つきのおかしな人たちだ。けれど、そうした目つきのおかしな人たちから見ると、我々普通の日本人が「おかしな人」に見えるのだそうだ。昔の人はよく言ったものだ。「体斜めなら、影斜めなり」斜めになった人から見ると、真っ直ぐなものが斜めに見えるものだ。

 

4.さて、食べ物に取り憑いた「よもつしこめ」に続いて、今度は1500の黄泉軍がイザナギを追ってくる。これまた強制動員された軍隊で、その黄泉軍にイザナギが桃の実を3つ投げつけると、たったそれだけのことで黄泉の軍勢が帰っていったというのだ。果たして1500人の追手の大軍に桃の実を3個投げたくらいで、大軍が引き下がるものなのか。そんなことがありえないことは、誰でもわかる。ということは、ここで「投げ与えた」とされる「桃の実」は、別な何かの象徴であったと読む必要がる。では「桃の実」が象徴しているのは何なのか。桃の実は、秋に収穫できる美味しい果物。桃の実の味は、ひとくち頬張っただけで、「ああ、しあわせだなあ」と思わせる、甘くて、酸っぱくて、みずみずしい味をしている。ということはつまり、ここで桃の実に化体して述べられていることは、そんな甘くて、酸っぱくて、みずみずしい・・・つまり、甘くて、やさしくて、幸せ感のある味であり、それが3個ということは、そこに述べられていることは「やさしさ、愛情、おもいやり」のことだといえそうだ。

 

5.ただ上から強制されて、まさに「モブキャラ(背景キャラ)」としてイザナギを追ってきたのが、黄泉の軍勢。それは1500名もの大軍であったけれど、全員が十把一絡げのモブキャラだ。けれどイザナギは、そのひとりひとりに、人間としての「やさしさ、愛情、おもいやり」を与えたのだ。誰だって人に生まれた以上、自分を主役に生きている。にも関わらず、それまで全く人として扱われなかった。ただのモブキャラ、ただの背景キャラ、ただの兵卒としてしか扱われなかった。そんな彼らをイザナミは人して扱い、やさしさと愛情と思いやりをもって彼らと接した。生まれてはじめて、彼らは人として扱われた。幼い頃に両親から可愛がられ、子として、人として扱われていた昔があった。「そうだ、俺たちだって人間なんだ」そう思ったときに、彼らはまさに「俺たちは何をやっているのだろうか」と目覚めたということを古事記は書いている。

 

6.ただ命令されて、モブキャラとなって人を追いかける。それってなんの意味もないよな、俺たちいったい何をやっているのだろうか。そう感じたとき、彼らは追うことを止めて、元いた場所に帰っていった。そういうことを古事記は述べている。人間は誰しもが自分の人生を「主役」として生きている。そうあるべきなのだ。そして、どんな人にも、必ず良心がある。その良心を信じ、ひとりひとりを、まるで抱(いだ)くように、たいせつに、やさしさと愛情と思いやりの心を持って接することを、根本から大切にしてきたのが、日本の文化の最大の特徴だ。これこそまさに、日本の神々の心。そういうことを古事記は、ここで説いている。そういう精神のもとに、帰国したイザナギは、禊を行なわれる。そして余計なものを全て捨て去ったときに生まれたのが三貴神であられる天照大神、月読命、建速須佐之男命だ。つまり、三貴神の神としての精神(あるいは霊(ひ)の根幹)にあるのは、まさにやさしさと愛情とおもいやりであり、人間として生まれたひとりひとりが、誰もが自分の人生を主役として生きることができる世の中だ。

 

7.この日本文化の精神は、時を越え、時代を超えて、まさにいま世界中の人々が求める偉大な人類の良心へと発展しようとしている。我々日本人のひとりひとりが照らす一隅が、世界を変えるのだ。これまでの西洋の歴史や東洋の歴史では、常に英雄がモブキャラを使って革命を起こすというスタイルだった。そして革命の都度、多くの命が失われてきた歴史だった。けれど、日本は違う。誰ひとり殺さない。英雄なんていない。主役はあくまでひとりひとりの庶民。その庶民が照らす一隅が、世界の良心を目覚めさせ、世界を良い方向に導いていく。もし、神々にお望みがあるのだとしたら、それこそが「神々の希望」であり、「神々の目指すもの」なのだ。