瀬戸内寂聴が読み解く「源氏物語」 | ある女子大講師

瀬戸内寂聴が読み解く「源氏物語」

瀬戸内寂聴が読み解く「源氏物語」

1.大河ドラマ「光る君へ」で話題を集めている「源氏物語」。99年の生涯を通して愛の喜びや悩みを描き続けた作家・瀬戸内寂聴が、人生最大のライフワークとして取り組んだのは「源氏物語」の現代語訳だった。千年前の平安時代に、紫式部という一人のシングルマザーによって書かれた大長篇小説「源氏物語」。読みやすく美しい日本語で訳された『寂聴 源氏物語』(講談社)の刊行を機に、寂聴さんがその魅力を読み解く。

 

2.大長篇「源氏物語」の幕開け~「桐壺」

この帖は、相当物語の進んだ後に書かれ、冒頭に据えられたという説もある。しかし、後に起る様々な主人公の身の上の事件を、予言暗示している点や、物語の構成上、最も重大な要になる父桐壺(きりつぼ)帝の妃藤壺(ふじつぼ)への、秘かな初恋のめばえなどが配置され、これから始まる物語への興味をかき立てる用意が、抜け目なくちりばめられている。  この帖から書きはじめたとみても一向に不自然ではない。  桐壺帝は多くの美妃を後宮に擁しながら、あまり身分の高くない桐壺の更衣(こうい)に異常なほど惑溺してしまう。その常軌を逸した寵愛は、後宮の他の妃たちの嫉妬をあおるだけでなく、重臣や世間の目から顰蹙(ひんしゅく)を買う。

 

3.更衣は他の妃たちからいじめ抜かれ、心身共に衰弱して死んでゆく。後には二人の愛の結晶の三歳の皇子が残された。  桐壺帝と更衣の悲恋は、唐の玄宗皇帝と楊貴妃の悲恋を主題にした「長恨歌(ちょうごんか)」になぞらえられている。  三歳で母を失った皇子を帝は宮中に引き取り、更衣の形見として自分の膝下で育てる。やがて母方の祖母も死ぬ。  高麗の相人に身分をかくして皇子を秘かに占わせたところ、この子は帝王の相がある。しかしそうなれば国が乱れ、かといって臣下で終る人でもない、と予言する。帝はその予言を聞き、皇子を臣下にして、源氏姓を賜う。皇子の絶世の美貌と、たぐいまれな聡明さから、誰言うとなく光の君、光源氏ともてはやされる。  光源氏十歳の頃、桐壺更衣を失って鬱病がちになり、政務もとれなくなっていた桐壺帝は、亡き更衣と瓜二つの先帝の姫宮を後宮に迎えた。藤壺の宮と呼ばれる。源氏より五歳年長の若々しい女宮である。源氏は藤壺の宮が亡き母とそっくりだとしきりに聞かされ、いつとはなく多感な少年の心に淡い憧れの恋を芽生えさせていた。  

 

4.十二歳の時、源氏は元服し、桐壺帝のはからいで左大臣の姫君と結婚させられる。後見人のいない源氏にとって、臣下で最高の地位にあり、桐壺帝の妹の大宮を妻としている左大臣は、誰よりも強力な後見人であった。源氏の正妻となった姫君は、自分が四歳年上であることにはじめからコンプレックスを抱き、かたくなに心を閉ざしている。この時代の貴族の結婚は早く、婿君はまだ子供が多く、花嫁のほうが年上で、添い臥しの役をさせられた。幼い夫を妻が初夜の床でリードするのが習わしであった。  申し分なく美しいけれど自尊心が高く、権高で冷たい花嫁に、少年の夫は、初夜から馴染まない。かえって、結婚の実態を知った源氏は、妻として一緒に暮すなら藤壺のような人をこそと、ひそかに切なく恋心をつのらせていく。

 

5.17歳の光源氏が出会った女~「夕顔」

この頃、源氏は六条に住む高貴の女性のところに通っていた。この帖では素性が明かされないが、六条の御息所(ろくじょうのみやすどころ)で源氏より七歳年上であった。先の皇太子の未亡人で、皇太子の忘れ形見の姫君がいる。  源氏はある日、六条の御息所を訪ねる途中に、五条の乳母の家へ寄る。乳母の家は五条の、ごみごみ小さな家の建てこんだ界隈にあった。乳母は病気が重く、頭を丸めて尼になっている。当時は病気が重くなると、出家すれば、病気が軽くなったり、死をまぬがれると信じられていた。  その日、乳母の家の外で門を開くのを待っている間に、源氏は隣の小家の垣根に咲く白い夕顔の花に惹かれた。その花が取り持ち、源氏はその家の女を知り通うようになる。女と寝ている壁ごしに、隣家の碓の音や、話し声がつつ抜けに枕元に聞こえてくる。そんな経験は初めての源氏はすべてが珍しい。女は素性を明かさないまま、源氏に心身を預けきって、ついてくる。源氏もいつも覆面をしたままで名乗らずに女と逢いつづける。八月十五日の夜、源氏は女を奪うようにして、人の住まない廃院に連れ出す。次の日はじめてそこで覆面を取り、源氏は女に打ちとけるが、女はやはり名を明かさない。  その夜、女は何かに襲われたように頓死する。乳母の子で乳兄弟の腹心の惟光が、女の死体を東山にもって行き、葬式一切を執り行う。源氏は悲嘆の余り落馬して、茫然自失のあげく、女を葬った後、病気で寝こんでしまう。女と一緒につれて出た女房の右近を、源氏は引き取り側近くに置いて使う。右近の口から、やはり女は頭の中将(とうのちゅうじょう)が話していた女と同一人物だと判明する。  夕顔の花の歌の贈答から、この女を夕顔と呼ぶ。

 

6.困難な恋に情熱をかきたてられて

この帖の終りに、こうしたごたごたした恋愛事件を、源氏は秘密にしておいたのだけれど、いくら帝の子といっても、知っている人まで、源氏に欠点がないようにほめるのと、話せば作り話のように受け取る人があるので、すっかり話してしまったといい、あまり慎みのないお喋りの罪は、免れがたいとする作者の言葉で結ばれている。  これが「帚木」の冒頭の地の文と照応しているのを見ても、「帚木」「空蝉」「夕顔」の三帖は、源氏十七歳の旺盛なラブハントを書いた点で一つのまとまった筋立てになっていることがわかる。  「帚木」のはじめに、源氏の性質として「うちつけのすきずきしさなどは、このましからぬ御本性にて」とあるのは、源氏の恋愛の嗜好をはっきり打ち出している。成立し難い恋、無理な恋、邪魔のある恋、許されぬ恋等、気苦労の多い恋に挑む時だけ、源氏は情熱がかきたてられる。いわゆる据え膳には全く興味も情熱も湧かないのである。後につづく源氏の恋のすべては、この独特の源氏の性質から出ていることを読者は承知しているべきである。  源氏が申し分ない正妻の葵の上(あおいのうえ)にどうしても愛情が湧かないのは、父帝や左大臣によって与えられた、努力も苦労も伴わない関係だったからである。  十七歳といっても数え年だから、今では十六歳のまだ高校生だ。何という早熟な不良少年かと愕(おどろ)くところだが、この時すでに、父帝の妃、自分にとっては義母に当たる藤壺と、思いを遂げていることがぼんやり示されている。  

 

7.「帚木」の帖に、源氏が紀伊の守の家に行った夜、女房たちが自分の噂話をしているのを盗み聞く場面がある。「胸深く秘めていらっしゃることばかりが気にかかっているので、まずどきりとなさいます。こんな折にでも、女房たちがあのお方との秘めごとを口にすべらせるのを聞きつけたら、どうしようか」と思うと、恐ろしくなるという源氏の脅えには、単なる片想いではない切迫したものが感じられる。  この時点で、すでに何等かの形で、藤壺と肉体的に不倫の関係を結んでいたと解釈出来るのである。  藤壺を得た自信が、なかなか逢えない藤壺の代用品として、同じ高貴の、得難い女性の六条の御息所に近づかせたのだろう。  紀伊の守の邸で誰はばからぬ強引な態度で人妻に近づき犯す源氏の太々しさには、最高の女性を二人もたてつづけに掌中にした若者の自信の裏打ちがあったのである。

 

8.謎めいた女・夕顔の魅力

しかし、夕顔の死に際して、源氏が身も世もなく馬から落ちるほど自失して、嘆き悲しむ姿を見せられて、読者はほっとする。この我を忘れた悲嘆ぶりには、青年の純情さが感じられるし、万一、よみがえった時、自分がいなかったら、夕顔がどう思うだろうと、見栄も保身もかなぐり捨てて、死体を運びこんだ東山の秘密の場所に、出かけていく源氏の一途さも、若さゆえの情熱と純愛の発露で、感動的である。  藤壺への初恋は、母恋いの変形だと取る説もあり、この許せない所行も、その一点で許せると観る節もあるが、そんな通俗な発想ではなく、源氏の恋愛事件のいざこざは、あくまで、困難な恋にしか情熱が湧かないという源氏の持って生れた因果な性格によるものだろう。コンスタンの「アドルフ」の中に、「すべては性格の悲劇です」という言葉があるが、源氏の生涯を貫くものは、この性格がもたらす悲劇に外ならないと思う。  

 

9.男性の読者に、源氏物語の中で好きな女性はと訊くと、異口同音に「夕顔」と答える。夕顔という女は、それほど男性にとっては好ましい永遠の女性であるようだ。可憐で、謎めいて、おとなしくて、性的にもすばらしい。男のいいなりに、心も体も、飴のようにとろけさせ自在に曲げ、水のようにどんな男のすき間をも満たそうと、ぴったり密着してくる。まるで我というものが全くないように見える女。ところが紫式部は、この夕顔にもっと、不思議な魅力を書き加えている。  廃院へつれ出して、はじめて源氏が覆面をとって、顔を見せ、「どうだい、この顔は、御感想はいかが」というような歌を自信たっぷりに詠みかけると、夕顔は流し目にちらと見て、「前にちらりと見てすてきと思ったのは、たそがれ時のひが目だったのかしら。間近で見ると、大したこともなかったわ」という返歌で、やんわりやり返す。決して、個性のない無色の女ではないのである。こうした反応の仕方をみても、ユーモアも解するし、とっさの気転もきく、手応えのある女だったのだ。  (瀬戸内寂聴訳『源氏物語』講談社文庫版・巻一「源氏のしおり」より再構成)

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