地域選別論は完全に否定 | ある女子大講師

地域選別論は完全に否定

地域選別論は完全に否定

1.コロナ禍とその以降に「財政が悪化しているから、政府は全ての国民を救えない。国民を救う国民と救わない国民に選別」

 というニュアンスで、ナチスさながらの国民選別論が流行った。この国民選別論などもってのほ他だ。理由は、①日本に「財政問題」など存在しないため、全ての国民を救える、②国民が選別され、互いに争うことで国民国家という共同体が崩壊に向かう、③今回「救われる国民」に入ったとしても、次はどうなるか分からないからだ。

 

2.今回の令和六年能登半島地震を受け、やはり「地域選別論」が出てきている。要するに、人口によって「救う地域」と「救わない地域」を選別するという、愚か極まりない地域選別論だ。「25年後には確実になくなっているであろう、珠洲市や輪島市などにある限界集落に復興予算をどこまでつぎ込むのか」だ。地域選別論が「極めて愚かな」理由を、五項目挙げる。感情論、感傷論は全て排除し、「国家」という共同体の存在意義に基づき「五つ」挙げる。

 

3.一つ目。大前提として、災害列島に存在する日本国においては、国民は可能な限り分散して暮らし、各地で経済力(財やサービスの生産能力)を蓄積しなければならない。その上で、いざ災害が発生した際には助け合う。地域選別論は、この「分散」を逆行させることになる。僻地に暮らす人々は、災害時に復興がなされないとなると、都市に流入せざるを得ない。地域選別論は、防災安全保障上の脅威なのだ。むしろ、東京都民こそが、地域選別論に反発しなければならない。

 

4.二つ目。「限界集落だから復興しない」の線引きが分からない。10人の集落なのか、100人の集落なのか、1000人の集落なのか。どこで線引きをするのか。国民選別論同様に、地域選別論についても明確な線引きはできない。10人の限界集落でも、インフラを復旧させたところ、25年後にはむしろ人口が増えるかも知れない。未来は誰にも分からない。

三つ目。限界集落だろうが何だろうが、「そこ」に「ヒト」が住んでいること自体が、国防安全保障に直結するという基本を理解すべきだ。例えば、「限界集落は復興しない」となると、離島などの人々が危機感を覚え、さらなる人口流出が進み、無人島が増えていくことになりかねない。となれば、十年後くらいに離島に中国の漁民が住み着いていることになる。日本国で「いわゆる保守派」を自称している人々こそ、地域選別論に「国防上の問題」から反発しなければならない。例えば、今後の日本で食料安全保障やカーボンニュートラルの問題から、農林水産業が見直されることは確実だ。となれば、今は「限界集落」などとレッテル貼りされている地域が、将来は産業拠点になりうる。未来は誰にも分からない。

 

5.四つ目。そもそも地域選別論を主張する人たちは「人口が10人しかおらず、二十五年後に消滅する限界集落のインフラを復興させるなど、カネがもったいない」といたニュアンスで反対している。すなわち貨幣のプール論に基づく財政破綻論だ。実際には、カネ(貨幣)など国会で予算を組めば、ゼロから創出される。国債を発行するだけなのだ。これでも「ザイセイガー」などと叫ぶバカは、日本政府の長期債務残高が1970年度と比較し「176倍」になっている(明治時代と比べると4000万倍)にも関わらず、何の問題も起きていない現実をきちんと説明しなければならない(図を参照)。いくら、復興予算を積み増したら「破綻」するのか、数値データを示すことなどできはしない。説明なしに「それでも財政破綻するからダメなんだ」と主張する場合、間違った自説を守るために、能登半島の人々を見捨てろ、と言っているのも同然だ。

 

6.五つ目。国家にカネの問題などない以上、全ての被災地について、災害以前を上回る高品質なインフラサービスで復興させればいい。もちろん、供給能力の問題は生じる。貨幣に制限はないが、土木・建設といった供給能力には制限がある。ならばなおのこと、長期的な計画を立て、優先順位を付けた上で、供給能力を投じる必要がある。安定的な需要が見込めるならば、土木・建設企業が投資を進め、供給能力も高まっていくことになる。日本の土木・建設の供給能力の回復のためにも、地域選別論は徹底的に否定しなければならない。

 以上、「防災安全保障」「国民選別の否定」「国防安全保障」「財政問題はボトルネックにならない」「土木・建設の供給能力の拡大」という観点から「地域選別論」に反論する。

 

「地域選別論を徹底的に否定せよ」

(参照;三橋貴明、https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/ )

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