宇喜多秀家の八丈島生活 | ある女子大講師

宇喜多秀家の八丈島生活

1.栄華と没落は戦国期につきものだが、中でも関ヶ原の戦いで敗れた後の宇喜多秀家は象徴的だ。備前岡山城主として57万石を領したエリート武将は一転、八丈島の流刑第一号となり、当然ながら島の生活は苦難に満ちたものだった。窮乏を極めた秀家の流刑人生は悲惨だったのか。その全貌に迫る。

 

2.慶長5(1600)年、関ヶ原合戦後、西軍に属して敗北した大名の中で最も特筆すべきは、西軍の首謀者宇喜多秀家だ。秀家は関ヶ原から離脱すると、島津を頼って薩摩へ渡海。長い薩摩での潜伏生活を経て家康のもとに送られた。その後、駿河久能へ連行され、八丈島に送られることになった。

 

3.慶長11(1606)年4月、秀家は八丈島へ配流された。駿河国久能で幽閉生活を送って、3年が経過してからだった。久能から八丈島まで、直線距離で250キロ。久能から下田に移されて八丈島に向かった。八丈島は周囲59キロ、面積約70平方キロの小島だ。当時八丈島への渡航は相当な困難。

 

4.秀家に同行したのは、子の秀高、秀継を含め計13人だけ。「七島志髄」によると、秀家ら3人以外では、家臣の浮田次兵衛、田口太郎左衛門、寺尾久七、村田助六、乳母の「あい」の名が挙がっており、残りは奴隷等とは半十郎、中間の弥助と市若、浮田次兵衛の下人の才若、乳母「あい」下女「とら」。

 

5.秀家が八丈島に流された際、上乗したのが渡邊織部。上乗とは船に乗り組み、目的港まで積荷の管理に当たる荷主の代理人で織部はもと北条に仕えていたが、のちに家康に仕官したという。島は米も収穫できない貧しい島。生活は厳しく、後世のエピソードになってしまう。

 

6.住居跡や墓は観光地として人気のスポットだが、秀家が生活をしていた痕跡は残っていない。秀家の墓は大賀郷で都の文化財。墓は小さな卒塔婆の形をした石塔で表面には「南無阿弥陀仏」と刻まれていたが、もはや判読が不可能なほど風化し罪人だったため、幕府を憚り小さな墓しか建てられなかった。

 

7.天保12(1841)年、墓は子孫の手で作り直され、表面に秀家の院号「尊光院殿秀月久福大居士」が刻まれた五輪塔になった。宇喜多一族の墓は低い石垣に囲まれ墓地を囲む石垣の上には「岡山城天守閣礎石」と刻まれた石が設置された。秀家の墓は再建立された。

 

8.大賀郷の海岸部には、秀家と豪姫の碑が建立された。豪姫は秀家とともに八丈島に行くことを希望したが、それは叶わなかった。その意を汲んで、この碑は建てられた。秀家に対しては、旧臣たちが気遣って書状、コメ、などをたびたび送っている。秀家は礼状の中で島での生活が耐え難いことを吐露。

 

9.「落穂集」によると、秀家は幕府に赦免を願い、本土への帰国を願っていた。何よりも「米の飯を腹一杯食べて死にたい」という秀家の言葉は、後世の編纂物だが偽らざる心情を物語っている。花房は目に涙をため、白米20俵を秀家に送りたいと幕府に申し出たと伝わる。後世の逸話だが本当だろう。

 

10.秀家は島の代官、谷庄兵衛に招かれ、食事を共にする機会に恵まれた。秀家は出された食事を前にして、突然箸を下ろした。秀家には、罪人であるという意識があった。秀家は懐から古い手拭を取り出し、膳の食べ物をおもむろに包みだした。再び谷が理由を尋ねると、秀家は次のように答えた。

 

11.「八丈島に来てから妻子を持ったが、島で豪華な食事は見たことがない。妻子に食べさせてやろうと思い、手ぬぐいに食べ物を包んで持ち帰りたい」代官の谷は同じ膳を妻子のために用意し持ち帰らせた。備前船が八丈島へ漂着した際の逸話だが「今の備前では誰が国の支配をしているのか」と聞く。

 

12.八丈島時代の秀家の逸話は、窮乏生活を揶揄したものが多い。秀家が八丈島へ流されたのは、1606年の35歳。亡くなったのは、1655年11月20日。死因は病死で84歳だ。八丈島での生活は、すっかり本土での生活期間よりも長くなっていた。法名として「尊光院秀月久復居士」とある。

 

13.その後の宇喜多氏は前田氏らの支援を受けながら、幕末まで存続した。その間、「宇喜多」を「浮田」に改め、流人頭に任命されるなど、すっかり八丈島に根付いていた。ようやく本土に戻ったのは、明治維新後のことだった。画像画像