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さらまんだの競馬と珈琲と音楽と

珈琲を含み音楽を聴く。そして競馬を予想する。当たったら何を買おうかな。物欲も旺盛でちっとも枯れない爺のあれこれ。

 ひょんな事からゲルマニウムダイオードを手に入れた私は、ラジオを作って夢であった「ラジオのある生活」の実現に向かって突撃を始めるのでした。

 

 当時は今と違って「圧倒的に情報が少ない」時代でした。家では新聞を購読はしていましたが、連載漫画を見るくらいだったし、たまに、母にねだって近所の小さな本屋さんで漫画雑誌を買ってもらうくらい。

 

 鉱石ラジオを作るにしても、回路図(そもそもその存在も知らない)も無い、作り方もわからないの「無い無い尽くし」。

 

 だが、私はもうその頃から「熱中しやすく醒めやすい」性格だったようで、猛然と行動を起こし始めたのです。

 まず、クラスの連中に聞きまわりそれが大ヒット。

 ゼロ戦の絵を描くことで友達になった、ナオト君という子が「僕、鉱石ラジオ持ってるよ、自分で作ったんだ」という。ナオト君は県会議員の息子である。聞けば今でいうキットを買ってもらって、実体配線図を見て作ったとの事。

 

 早速、学校の帰り道ナオト君の大きなお屋敷について行って、ラジオと説明書を見せてもらった。さらには回路図と実体配線図も写させてもらった。

 

 必要な部品がわかった。しかし、お金は無い。貯まるのを待つしかないのか?さらには部品が揃っても自分の力で作れるのか?
 

 近所の子で「鉄屑」を拾って小遣い稼ぎをする子がいた。勿論、私もやった事がある。お金持ちやちゃんとした家の子以外はたいていはやっていた時代だった。

 その子が「鉄屑屋さんでラジオの部品をよく見かけるよ」と教えてくれたのでした。

 

 私は大げさに言えば「暗闇の中に一筋の光」を見つけたような嬉しさに襲われたものでした。

 

*タイトルに追記(2023-11-24)

 私が生まれ育った所は高台にあって、東の500mほどの通りに市電が南北に走っており、西の1Kmにも南北に市電が通っていました。

 その二つの市電の停留所を繋ぐように、大きな通りがありました。 

 その頃の事で当然舗装はされていなくて、砂利が車の轍でうねうねとしており、たまさか通るオート三輪が砂煙をあげていました。

 その通りも使って野球をしている私達は、たまに飛んでくる砂利に気をつけなくてはなりませんでした。

 

 ある日、その通りを歩いていた私は、タイヤで砂利が除けられた小さな窪みに、茶色の小さなものを見つけたのです。

 「何だ?」と手に取ってみると、1cm程の長さの円筒形に左右の円形から線が出ているものでした。

 「なんだこりゃ?」と思いつつも、円筒形の表面に書かれたアルファベットに気を惹かれポケットに入れたのでした。

 

 謎の円筒をポケットに家に帰った私は、ヒデシの兄であるケンちゃんに見てもらう事にしました。ケンちゃんは色んな事を知っている我らのヒーローだったのです。

 

 ケンちゃんに見せました。ケンちゃんは「こりゃラジオの部品じゃないか?俺の友達にラジオを作る奴がいるから聞いてやるよ」と請け合ってくれました。

 

 その明くる日、中学校から帰ってくるケンちゃんを待ち伏せしている  

と、「おい、わかったぞ!」

 ケンちゃんの友達が言うには「これは、ゲルマニウムダイオードというもので、鉱石ラジオの鉱石の代わりに使える」との事。

 「これでラジオが作れるんだ」と驚くとともに、瞼に家でレシーバでラジオを聴いている自分を思い浮かべたのです。

 

(注意)自分昔の事ですので、ゲルマニウム等の発明、実用時期と違う点があれば御容赦下さい。

 

*タイトルに追記(2023-11-24)

 

 先回の「かる焼」で、

「笑っちゃうほど何も無い時代」と書きましたが、この言葉に触発されて思い出してみたら、あの頃(昭和20年代後半から30年にかけて)本当に何もなかったと再確認した次第です。

 

 かる焼を作った部屋には、あの火鉢しかなかったのですが、子供故か余り寒いとは思わなかったけれど、毎冬「足の霜焼」に罹っていたから、やはり寒かったのだと思います。

 

 そして、電化製品といえば、将に何もありませんでした。電化製品なんて言葉も知らなかった。

 

 ただ、「電気を使うモノ」といえば、薄暗くて、上に笠が付いた「裸電球」だけでした。

 夜ともなれば笠にさえぎられた部屋の天井は暗く、傘の下だけがオレンジかかった電球の色に照らされていました。その色が余計に侘しく感じられたものです。

 

 ある日の夕方、父が「いいものを買って来たぞ!」と、今でいう「ドヤ顔」をして帰ってきました。それは電球でした。父は「100Wだぞ!」と言って、得意顔で電球を交換しました。待ち遠しい夜がくると、今までにない明るい光に歓声をあげたものです。

 

 そんな貧乏な我が家では、ラジオもありませんでした。好きな番組を聞きたいときはヒデシの家に行きました。

「自分の家で好きなラジオが聞きたい」というのが、当時の夢でした。

 そして、偶然にも「ある物」を拾った事がきっかけで、夢に向かって歩み出したのです。

(つづく)

*タイトルに追記(2023-11-24)