岐阜県可児市久々利大萱の山中🗻で赤松の割木を燃料とする穴窯で、
主に志野、黄瀬戸、瀬戸黒、粉引を手掛ける名工です❗
故荒川豊蔵(1894年~1985年)先生の内弟子として1960年4月から晩年まで側近におられた、
1942年愛知県名古屋市生まれの 豊場惺也 (とよばせいや)先生の 「志野酒盃」 です。
・可児市重要無形文化財「瀬戸黒」技術保持者
桃山時代の穴窯を再現した豊場先生の薪窯🔥から生まれたこの志野酒盃🍶は、
一見👀すると荒川豊蔵先生の志野酒盃🍶と見間違える程の素晴しい作品で、
さすが豊蔵先生の側で陶技💪を学んだ、豊場先生しか作る事ができない酒器であります❕
なんと豊場惺也先生は同じ荒川豊蔵門下の外弟子で瀬戸黒技法で人間国宝✨の 加藤孝造 先生に
瀬戸黒の技法を教えた方であるそうです(知らない方は前回の記事👇を覧てください)
志野の長石釉から全体に現れたカイラギと言われるヒビ割れ⚡模様が全体を覆って、
この釉薬のヒビ割れ縮れ模様がこの碗型の酒盃の魅力です😄👍
鉄絵✎を施さずにカイラギ釉肌⚡と火色🔥だけの自然の装飾だけで勝負している、
飾らない素朴な本物の志野の逸品✨だと思います👌
内側には陶芸用語で石ハゼと言われる土の中に含まれていた石粒が窯中で爆ぜて💣、
偶然にもそこに小さな穴⭕が開いて、それがこの作品の個性🌟ともなっています😋
それは豊場先生が土を水ひ(土の中の石粒を清々すること)をしないでロクロ🌀を引いたためです❗
長石釉がほんのり赤い釉薬の色調は、土の中に含まれている微量の鉄分が釉薬の下から滲みでたもので、
さらに窯の中で灰が掛からない様にする窯焚き道具のサヤと言われている筒の中に入れて焼いた🔥際に、
サヤの中で作品がくっつかないようにするための土が赤いので、その土の中の鉄分もこの作品に移って、
その二つの要素によってこのオレンジ色の様な赤い火色🔥が生まれたのです😆✨
高台部分にも釉薬がかけられていて土の雰囲気はわかりません💦が、
釉薬が赤く発色した火色🔥がとても優しげな色合いでほっこりします😊✨
高台横に陶印があり豊場先生の「井」の名がハッキリ👀見え、
その「井」の名のところだけ釉が掛けられておらず土の色合いがわかる唯一のところであります😄👍
共箱も志野酒盃に負けない上質✨な桐製の箱で、
高級💸なフタの中央が盛り上がっている盛フタを使用し、
更に側面を凹凸に組んだ組箱使用となっています👏
この上質🌟な桐製の共箱が付いているという事は、
豊場先生自身も納得の出来✨の作品🍶であるという証拠でもあるんです❗
豊場惺也(1942年~)先生は美濃桃山陶(志野・黄瀬戸・織部・瀬戸黒)発祥の地✨、
岐阜県可児市久々利地区で師👴である荒川豊蔵先生と同じ作り方で、
美濃の山々🗻から探し出した宝💰の陶土、釉薬の原料の自生する植物🌿の灰や長石、
桃山時代の陶工と同じ手回しロクロ🌀、桃山時代と同じ様式の穴窯で赤松🌲の割木、
なんでもインターネット💻で買える時代に近代化した機械や道具を使わず、
令和の現在では考えられないような気力💦と労力💦をかけ可児久々利大萱の山中で、
今でも理想とする焼き物を目指して作陶を続けられています❗
近年、若手陶芸家👨の方々が毎年新たな志野焼をこの世に生み出し自分の様な愛好家は嬉しい限りですが・・・
美濃の80歳を超えた戦前生まれの巨匠の方々の作る志野焼は注目がされにくくなっています😰💦
豊場惺也先生もしかりで、その技術💪の跡を継ぐ若き陶芸家もいないそうです💦
さらに現在、素材が枯渇😭し全国的に上質な陶土や釉薬の材料になる長石や灰、
薪の材料となる赤松🌲などが手に入らなくなって、
海外🚢から輸入した手に入れやすい材料が支流になりつつあるようです💦
近い将来10年、20年もっと先の未来には荒川豊蔵先生などの先駆者👴が苦心の末に編み出した、
良い材料無くして生まれない志野や黄瀬戸、瀬戸黒の陶技💪がこの世に無くなってしまうのは、
もう避けることができない未来✨なのかもしれません😢💧💧💧
この紹介した豊場先生の「志野酒盃」🍶を大事に保管して、
将来『自分が若い頃、東海地方にはこんなにも素晴しい巨匠の陶芸家がたくさんいて、
そんな巨匠の方々は自分に素晴しい酒器を託し残してくれた』と伝えていくこと、
それが自分に課された使命だと思うのです😊✨✨✨