例えば、学校の先生。
貴方は毎日、生徒に対して「嘘はついてはいけません、絶対に説明責任は果たしなさい、少数意見には必ず耳を傾けなさい」と諭していたとします。
しかし、そんな先生は往々にして、日教組で、組合に入らない先生に無言のプレッシャーをかけ続けたりするもの。僕の小学校の先生も、日教組では無いがために鬱病に掛かり、休職されてしまいました。
人間は往々にして、合理的では無い判断を、極めて合理的に判断してしまいます。
今までの慣習。
或いは、事前準備。
特に顕著なのは官僚組織で、30年前のダムの話を未だしているのは極めて合理的ではないのに、決まったことだからという一言で合理的に物事を進めようとしている。
30年経てば、時代背景は変わります。
社会システムも変わります。
ましてや今は、インターネット時代を生きる世の中。
世界は5年で瞬く間に変化する、と言われる時代です。
ダムでなければいけないのか?と何故、考えないのか。
決まったこと、30年も待たせておいて、弱者しわ寄せ……そんな「論理的な」感情議論が、日本を衰退させようとしているのです。
今、必要なことは、組織として、合理的に論理的に判断することです。
こう言うと、いつも世の中はロジカルに判断出来ない!という人がいます。デジタルのような、0 か 1 かで判断は出来ません、と。
確かにその通りです。
従って、合理的に論理的に判断するに当たって、情緒は欠かせないと思います。
しかし、1度判断したことに対して、惻隠の情が感じられないと批判するのは、それこそ「惻隠の情が感じられない」と思うのです。
何だか纏まらないので、今日はこの辺で……。