21世紀の政治責任論―中川昭一氏の辞任に思う | それもまた良し

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関西のとあるベンチャーで働くSEのブログ。

日々のインプットから、アウトプットを定期的に行うことが目標です。主に組織論やドラッカーの話題が中心ですが、タイトルにもあるように「松下幸之助氏」のような互助の精神を持ち、社会人として成長出来る事が最大の目標です。

今日は久しぶりに仕事が捗りました。
やればやるほど前に仕事が進むということは、大変有難いことです。

特に、こういった場合は周囲と協力したからこそ前に進みます。
自分のことだけを考えてしまうと、集団作業として仕事をする場合、相手待ちのケースが絶対にあります。従って協力して自分の分もする、相手の分を手伝う、そうやって相分することで全体として前に進める。

これでこそ、This is 仕事かな、と今日は充実しています。



ところで、中川昭一氏が辞任されてしまいました。

僕自身、中川(酒)が好きな政治家だっただけに、何をやっているのかと思う反面、どうやら中川氏と酒を飲んだのは2日ともマスコミ、特に大手新聞社の人間だそうで、嵌めたな、とも思ってしまいます。

特に年明けからマスコミの麻生叩きが激しいので、その渦中に中川氏が呂律が回らない状態で記者会見を受けてしまったのははっきり言って不用意としか思えないのですが、ではそれがいけないことなのか?という点に真剣に突き詰めれば「?」しか浮かびません。



僕自身、政治学科出身であり、卒論では官僚の天下りをテーマにしたので、この政治責任に関しては1つの意見があります。
今日はその話題を取り上げたいと思います。



さっそくですが、官僚の天下り。
皆さんはどう思いますか?

悪いことですか?
僕は、これだけを捉えて「悪」ということは間違っていると思います。

まず、そもそも、民間会社、大中小、たいていやっていると思います。官僚からの天下り受け入れ。
何もしないお爺ちゃんがいる一方で、ばりばり仕事して後輩を叱咤するお爺ちゃんもいます。
実際、そういうおじいちゃんも知っています。

労働力の確保、しかも専門的知識を持っている、という点で決して悪いとは思えないのです。
話すと長くなるのですが、僕は天下りを「資本主義の暴走を監視する社会主義集団の使途」と見ています。


では大量の退職金を貰うことがいけないのでしょうか?
しかし、考えてみれば、もしその企業で大量の成果を残していたらどうでしょうか。

よくマスコミでは1か月に2回しか出社しません、なんてケースを取り上げますが、じゃあその2回の出社で2億の利益をもたらすビジネスを成功に導いていたとしたらどうでしょうか。

いつからか、恐らく平成になって昭和という時代を懐かしむ時代が出てからでしょうが、努力を美徳と思うようになりました。
しかし、それは違います。

100時間努力して、何の成果も無かった人。
1分だけ努力して、組織に何千万、何億という利益を齎した人。

どちらが評価されるかと言えば、後者です。

確かに何かしらの成果を出なかった人を、慰めたり頑張れと言ったり、励ましはしますが、比較した場合、評価はされないはずです。

ようは、いくら退職金を貰おうと、何をしても結果を組織に残していれば、問題は無いと思うのですが、現在の官僚天下り叩きの一貫で、一度でもそういった視点で天下りは評価されたでしょうか?

恐らく、されていないはずです。
究極論になってしまうのですが、現在のベンチャービジネスで活躍する、このアメブロの親玉でもあるサイバーエージェント代表取締役の藤田氏が実は総務省から天下った役員で、そのまま社長になりました、あの有名ななんたらという本は本当は嘘、藤田氏も本当は60歳だよん、と発表された時、それでも天下りは悪いと一概に言えないでしょう?

藤田氏が残した形跡、成果はあまりにも大きいんですから。
もっとも嘘を付いていた、という点では叱責はありますでしょうが。

もっと言えば、天下りは構成要件に該当する、違法かつ有責な行為でしょうか。



天下りの問題の本質は何か?
ずばり、

(1)出身官庁と天下り先組織の連絡役として利権の担い手になっている(いわば逆・人質みたいなもの)
(2)天下り先組織に、送った元・官僚の人数に応じて国民の税金が流れている

この2点なのです。

利権の逆・人質として役員が天下りしている。これは天下りした役員が犯罪に手を染めています。
官庁が役員を天下りさせるのは良いとして、それに応じて恣意的に国民の税金を流している(つまり最適化されていない予算配分)。これは正確には犯罪とは言えないかも知れませんが、国民に対する背任行為です。


だから、天下りはダメなんです。
逆に言えば、この2つを封じてしまえば、いくらでも天下りしても良いと思います。

恐らく官僚は、この2つの旨みが無くなれば天下りしたいと意地でも思わなくなりますし、それでも同期が出世して自分が部長止まりで嫌だと思って天下りするする人は出るでしょう。



結局、天下りの本質が見過ごされたまま、解り易いという理由で「庶民的感覚」という言葉が用いられ、退職金という庶民に唯一馴染みのある言葉がメディアで踊る。

それでは、はっきり言って官僚の思うつぼです。



今回の中川氏の辞任に関してもそうです。

そもそも政治家とはどういった存在か? に関して考えた時に、


(1)国民が自身の選挙区から選び、もっとも得票を得た人間
(2)選挙に応じて担当する分野は違う(例えば国政・市政など)
(3)国の政治における責任を負う、政治とは国の統治や社会活動、意思決定を指し、責任とは統治や活動、決定が齎した結果に対しての責任を意味する


この3点が政治家の根拠な訳です。
中川氏に求められていることは何か? ということを考えた時に、

「日本国の政治家として、北海道11区から、その地元国民から選ばれた」

訳です。そして中川氏は国の統治、社会活動、意思決定(これは衆議院議員として)に責任を負う訳です。それだけでなく大臣として、財務・金融に関して担当ですから責任は重大です。



もしG7で酒に酔った失態で、日本の財務・金融政策責任者として、日本に大きな影響を与えたという理由で(実際に株価は400円ほど下がり、円も2円ほど安くなりました)辞めろと言うのであれば、それは辞任理由になります。

しかし公衆の面前で酔った、だから辞めろ、というのは本当に理由になりません。
少なくともそんな理由だけで辞めることは政治責任を取ったとは、とても言えません。

民主党が辞めろ辞めろと言って、予算委員会を欠席し、問責決議案まで出たから辞めます、と言うべきです。

政策の実行責任者として、この政策を実行しましたが、その結果として悪い結果になりましたので辞めます。
これが政治責任だと思います。
民主党は自民党連立政権を打倒するという理由だけで中川氏の辞任を要求しているのに、それにつられるマスコミや国民が本当に情けないです。



マスコミ、特にテレビというのは、基本的に映像で視覚的に伝えますから、目で判断します。
92年の宮沢内閣不信任案にもとづく解散・総選挙が「うそつき解散」と呼ばれたのも、宮沢氏がテレビで「私は政治改革します。私は嘘は申しません」と言ったのに、結果的に政治改革出来なかったからです。

宮沢氏が「嘘は申しません」と言った、ただテレビの前で。
しかしその映像はメディアで何回も何回も何回も流れました。



メディア、特に報道の仕事はニュース、情報を国民に知らせることであり、善悪の判断・考えは国民に委ねるべきなのに、なぜニュースコメンテーターは「信じられません」「ふざけるな!って思いますよ」「何をやっているんですかね?」と勝手に主観を挟むのでしょうか?

それは結果的に皆さんの「考える」という作業を奪っていることにならないでしょうか。



皆さん。
考えてみませんか。

公衆の面前で酔っ払い、醜態を全世界に発信されました。
それは日本の政治「責任」として、どうやって「閣僚の辞任」につながるのか。


政治評論家の三宅久之さんがよく言うのですが、

「利権塗れで悪徳と評判だが、政治手腕は素晴らしく様々な成果を上げている政治家」
「利権には一切何も関係ないが、無能で何ら成果を上げることの出来ない政治家」

どちらが良いかと言う話です。
これはつまり、政治家の責任は政策に対する責任を担うべきであり、その責任の拠り所は国民の幸福に存在するという意味なのですが―はたして、今回の中川氏の辞任で後味もなく、国民が最大多数の最大幸福を感じ取れたのなら、それはそれで良かったのですが、そうでもないはずです。


結局、今回はとにかく辞めろという根拠の薄い辞任論に押された中川氏が一番悪いのですが……しかし、こういう政治責任論が罷り通る21世紀に、本当に政治的リーダーが育つのか疑問です。