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マスコミに、そんな資格があるのか?
多くの人が指摘し、僕自身もマスコミ報道を見るにつけ以前から感じていたことですが・・・。
被害者の情報を実名・顔写真付きで報道する意味がどこにあるのでしょう?
純粋に犯罪や事故の防止を目的とするならば、被害者の実名はもちろん顔写真や住まいの情報なんて全くいらないはず。
これに関しては、一つ言えることがあると思います。
実名や顔写真がないと視聴率も、購読率も上がらないということ。
その結果、マスコミにとっては商売にならないということ。
つまり、マスコミが被害者情報を流すのは、視聴率を上げ、購読者を増やすことが最大の目的なのです。
そんなマスコミに、警察や学校関係者が被害者の個人情報を流したことを糾弾できる資格があるのだろうか?
もちろん、警察や学校関係者が市民の個人情報を本人の同意なく漏洩させるような行為をしたならば、これを絶対に許してはなりません。
厳しく断罪し、、責任を取らせるべきです。
けれども、被害者情報を「当たり前」のこととして進んで公開しているマスコミが、情報漏洩を行ったとして警察等を直接的に批判したり、ご遺族が警察署長を罵倒している場面を放送するのを目にすると、改めて強い違和感を覚えざるを得ない。(ご遺族のお気持ちは痛いほど分かりますが)
なんだかやり過ぎというか、調子に乗りすぎというか・・・。
新聞・雑誌・TVを見る人の数が減り続けているのはメディア特性としての問題もあるとはいえ、こうしたマスコミの報道姿勢そのものの問題の方が大きいように思います。
『そんなことやっていたら、商売にはならない!』と良く言われますが、様々な業界で、いまや「そんなこと」をやってもビジネスになる例が全然珍しくなくなってきています。
マスコミ業界にも、「そんなこと」をきちんと商売として成立させるところが出てこないかと思う今日この頃です。
熟慮されないハイリスク
昨日とんでもない事故が起きました。
事故現場の映像を見た直後は、唖然とし、大袈裟じゃなく体が震えてしまった・・・。
関越自動車道のバスの事故のことです。
事故の映像を見た瞬間に、お亡くなりになられた方々のご冥福を祈らずにはいられなかった。
と同時に、ご遺族の方々のご心痛を思うと胸が詰まってなにも言葉がでてこなかった。
けれども、こうして事故から一日が経過して考えたことがあります。
結局のところ、自分や家族があのような大惨事に巻き込まれないために「今すぐ」できることといえば、多分、これしかない。
自分の身は自分で守る意識を改めて強く持つこと。
具体的には、みんながやっているからといって、安易に「大丈夫」と思わないこと。
原発の問題も、ユッケの問題も、今回の深夜バスの事故の問題も、事故が起きる以前にその危険性をはっきりと認識していた人は圧倒的少数派だったに違いない。
でも、そうした圧倒的少数派の人達の中には恐らく・・・。
いくら安全だと言われても信用せず、原発のそばに住むことを拒否した人がいる。
きちんと営業許可を取っている店が提供していても、ユッケは注文しなかった人がいる。
深夜バスが他の交通機関と比べて相当安かったとしても、利用しなかった人がいる。
疑い深さが文字どおり「生死の境目」となったのです。
もちろん、そうした「疑いの目」を持ったとしても限度はあって、どんなに注意しても不可避の事故や、まさしく不慮の事故もある。
今回の大惨事がどちらのケースなのかは(少なくとも僕は)まだ判断できません。
けれども、今回の大惨事から「低価格はハイリスクである」という、極めて当たり前のことを気付かされた。
ユニクロなど、一部の企業が「ローコスト&ハイ(ミドル)クオリティ」を実現し、それが決して無理なことではないことを証明しています。
でも、恥ずかしながら、それがイコール「普通」のことでもないということを忘れかけていた・・・。
衣はともかく食住や交通など、リスクを取って失敗したら命にかかわったり取り返しがつかない分野では「低価格はハイリスクである」という、本当に本当に当たり前のことを忘れないようにしようと強く思いました。
ヒットの法則
ヒット商品の多くには斬新さがあります。
斬新さとは「こんなの初めて。驚いた!」と感じさせる何かのこと。
では、その「感じさせる何か」はどうやれば作れるのでしょう?
この問いに対する答えはいくつかあるかもしれませんが、自分にとって一番しっくりする答えはこれ。
『両極端、対局にあるものの組み合わせ』
あるいは『過去にはなかった組み合わせ』
要するにAとBの結合です。
と~ってもシンプル。
でも、これのミソはAとA'ではなくて、AとBでなくてはならないってこと。
そう考えれば・・・。
・スマホ=携帯電話とPCの結合
・アップル=本当の意味でのハードとソフトの結合
・おねぇタレント=女と男の結合
・芦田愛菜=大人と子供の結合
・ワンピース=海賊モノと黒澤映画の結合
・ハイブリッド車=ガソリン車と電気自動車の結合
まだまだほかにもたくさんありますよね。
ちょっと話は大きくなりますが、文明と文明が出逢う瀬戸際ではまさしく「結合」がおきて、独自の発展を遂げることが多いのも同じ理屈。(イスタンブルとか昔の長崎とか)
この理屈の例として、時代的に最も近いのが日本なのかもしれません。(それともシンガポール、フィリピンあたりかな?)
現在の日本=東洋(昔の日本)と西洋(アメリカ)の結合。
さて、ここで一考。
和魂洋才と、現在の日本の状況は同じものだろうか?
否。
和魂洋才(古くは和魂漢才)はまさしく和と洋の結合をもって1+1を3にする試み。
これに対して、戦後の日本が現在までやってきたのは、日本をひたすらアメリカ化すること。
この差は大きい。
そして、日本がアメリカ化していく過程の中で、日本的なものとアメリカ的なものとの中間点に位置した(「結合」効果が最も発揮された)のが実は高度成長期だったのではないかと僕は考えています。
だからこそ、中間点を過ぎ、Aが次第にB化していくに従い「結合」l効果がなくなってしまった。
その結果、日本自体がもはやヒット商品ではなくなった・・・。
とすると、今の日本において、社内公用語を英語にする動きというのはどうなんだろう?
無意味とは言いませんが、それよりももっと優先順位が高いものがあるのではないだろうか?
それは・・・。
原点回帰。
日本をもっと日本化すること。
アメリカに向かって一目散に走るのをそろそろやめて、日本らしさをもっと際立たせること。
「失われた20年」をものともせず、ジャパニメーション、マンガ、AKB48、メイドカフェなどが世界的に隆盛しているのを見るにつけ、今の日本において必要な方向性はそちらの方だという思いが強くなる一方です。
エコのいかがわしさ
以前から疑問を感じていましたが、最近ますます強く疑問を感じていることがあります。
エコ、エコ言うけど、本気で環境のことを考えている企業はどの程度あるのだろうか?
ほとんどの企業はあくまで「ビジネス的」に、エコだの環境に優しいだの言っているにすぎないとしか思えない。
環境への配慮を最優先に考えるのであれば、当然、モノは売れなくなる。
リデュースはともかく、リユース、リサイクルすることによって新規の需要が抑制されることは明らかだからです。
ということは、シンプルに考えれば、エコを本気で進めることと景気を良くすることは二律背反の関係にあるということです。
こういうと、恐らく「ことはそんなに簡単じゃない!」とのお叱りを受けることになるのでしょう。
ただ、どうしても言わざるを得ないのは、賞味期限切れだからと言って、まだ充分に食べられる弁当等を何のためらいも無く廃棄し、飲み会では大量の食べ残しが発生し、まだ全く問題なく使えるTVを完全地デジ化だからといって強制的に買い変えさせるような社会のどこがエコなのかということです。
日本人がもともと持っていたはずの「もったいない」の精神は一体どこへ行ってしまったのでしょうか?
デフレ脱却と景気回復のためには、質素倹約の精神を犠牲にせざるを得ないということなのでしょうか?
もしそうだとすると、基本的なスタンスとして、我々はデフレを脱却し景気を回復させることをなんとしても目指すべきなのか、それとも質素倹約の精神に立ち返るべきなのか?
その根本的な選択をしないまま、消費税増税もTPPも原発再稼働も(もしかしたら沖縄の基地問題も)なにもあったものではないのではないでしょうか?
僕はまだ態度を決めかねていますが、今の気分は後者の方です。
勤勉、質素倹約、謹厳実直、質実剛健、誠心誠意、以和為貴・・・。
和魂洋才はとうの昔に忘れられ、洋魂洋才化に傾きすぎた結果がこの「失われた20年」を引き起こしたような気がしてなりません。
今こそ和の心を尊びたいと思います。
けじめ無き国
最近居酒屋でも赤ちゃんを連れたご夫婦を見かけることが多々あります。
社会の風潮として、そのことに対して否定的な反応はほとんど見受けられないのではないでしょうか?
敢えて言います。
これまた僕はこのことに反対を表明します。
きちんとしたレストラン(和洋中問わず)には、赤ちゃんはもちろん子供を入店させるべきではない。
また、ファミレスや食事が中心の店を除き、居酒屋等、大人が飲酒し、喫煙する場所に小学生以下(本当は未成年と言いたい所)を伴って入店すべきでない。
これを守れない親は、心の中のどこかが厳粛さに欠けている。
そうした親は・・・。
・自分の大切な子供がタバコの煙にさらされることを何も思わないのだろうか?
・周囲の酔客の与太話を子供に聞かれることをなんとも思わないのだろうか?
・自分自身の酔った姿を子供に見せることに、なんの抵抗も無いのだろうか?
・子供のいる場所では飲酒、喫煙を控える大人がたくさんいることを忘れているのだろうか?
それとも・・・。
「だって、仕方が無いじゃない」と、傍若無人を決め込んでいるのだろうか?
「家ならよくて、外ならダメって理屈がわからない」というほど、公私の区別ということに鈍感なのだろうか?
いずれにせよ、守るべきけじめが踏みにじられているとしか思えない。
そもそも老舗の料亭などは、普通は、子供はお断りです。(けじめがきちんとしている)
ところが、いつのころからかチェーンの居酒屋等を中心に、むしろ「子連れ大歓迎!」のお店が増えてきたように思います。(ニーズがあるということなのでしょう)
親だけじゃないですね。
こうした店の経営者もタガが緩んでいるに違いない。
こういったところから修正していかないと、日本は、本来持っている特性を発揮できないように思います。
人の振り見てわが振り直せ。
自分自身、「けじめ」がユルユルになっているところがないか、再点検しなければならないなと思いました。
絶対に人に教えない店
超のつく一流店や本当に良い店は食べログには出ていないことがほとんど(もちろん例外はあります)。
なぜか?
そうした店には強固な常連さんのネットワークがあって、経営が安定していて新参者を必要としないし、お店側も常連客側も、雑誌やネットを見て興味本位にやってきた一見の新規顧客が増えることを望んでいないからです。(とはいえ、一流店になればなるほど、新参者に冷たく当たることはありませんが・・・)
金脈やマツタケ山を見つけると絶対に人には教えないのと一緒で、ネットに口コミしたがらないのです。
こんな説明をするまでも無く、多分、皆さんも人に教えたくない店の一つや二つ、あるのではないでしょうか?
自分が本当に落ち着ける店は「隠れ家」として取っておきたいのが人情ですから、取っておきのお店を見つけるには、実はネット上の情報を当てにするよりも地道に足を使って探すのが一番だったりします。(ドラマ「孤独のグルメ」でやってる、アレです)
門構えを見ただけで「ん?、この店良さそうだぞ」と鼻が利くようになるまでは失敗・後悔することの方が多いでしょう。でも、慣れてくると次第にハズレの店より当たりの店の方が増えてくる。
そうして苦労と失敗を重ねた後に出会ったお店は、ネットで知った店よりも、はるかに自分にとって大事な店となることが多い。
やはり支払った対価が大きければ大きいほど、満足感は大きい。
そんな当たり前のことを思い、ネットでの情報発信(こうしてブログを書いているのがまさしくそうですが・・・)を色々考える今日この頃です。
日本が負け続けるわけ
HDDからダビングしたDVD、視聴ができないことって結構ありませんか?
もちろん、事前にダビングする側、ダビングしたDVDを見る側の機器の仕様をきちんと適合させる等すれば、そうした不具合も避けられるのでしょう。
実際、僕の使用している機器のマニュアルにもそうしたことが書かれています。
けれどもその姿勢、「ユーザーに手間をかけさせても特に何とも思わないんだな・・・」と突っ込みたくなる姿勢こそが大問題だと思います。(商品開発力やマーケティングの問題じゃない)
4年前にiphoneの最初の機種を買ったときに大変驚いたことがありました。
もともと自宅にあった国内メーカーのオーディオ機器に、ダメモトで発売されたばかりのiphoneを繋げてみたら何の問題も無く使えたのです。
これ、普通のことに思えます?
でもそのオーディオ機器はかなり前のもので、ipodはともかくiphneとの接続は全く考えていなかったはずなのです。
アップル製品に込められたハイユーザビリティ、ストレスフリーの程度の高さに比べると、昨今の日本メーカーの製品には本当に失望させられることが多いです。
失望しなかったとしても、ただそれだけ。
驚きや感心させられることが非常に少なくなってしまった・・・。
でも、例えばソニーが輝いていた時代では、高性能、高品質といえば、それはもともと日本製品の代名詞だったはず。
そうした製品を生み出す「能力」が日本人には間違いなく備わっていたし、それは今も消失してしまったわけではないはず。
それならば、どうして今はその「能力」が発揮されていないのか?
色んな仮説がたてられますが、僕自身、一番しっくりくるのはこれ。
『必死にならざるを得ないほどまでには、今の日本人は実は困っていないから』
大震災の傷跡も全くと言って良いほど癒えず、原発の問題も落ち着くどころか依然として燻ったまま。
これほどの大きな苦難を突き付けられているにもかかわらず、全体としての日本人には、どこか危機感がなく、必死さが感じられない。
そんな寝ぼけ眼を覚まさせるのに一番効果覿面なのは・・・。
もっともっと強烈に冷たい冷や水をぶっかける。
残念なことですが、それしかないような気がしています。
怒り収まらず
「今の就活生は可愛そう。」
「不運だ。」
ここ数年、(否、いわゆる就職氷河期とされる時期に就職活動をすることを余儀なくされた学生に対してはほとんどいつも、)こうした同情が多く寄せられています。
みなさんもそうですか?
僕はこれには全く同調できません。
むしろ正反対の意見を持っています。
今の日本の就活生は全然可哀そうなんかではない。
それどころか、有史以来おそらくもっとも恵まれた(甘やかされた)人々の集団です。
たった数十年を振り返っても、戦争に徴用されて命を落とした人もいれば、戦後の混乱期を残飯を食べ、やっと雨風がしのげるだけの小屋で過ごした人もいる。
それに対して今の就活生は・・・。
何が不運なものですか。(時代錯誤ですか?)
でも、社会を実体験していない彼らが「自分たちは不運だ」というのはまだ良いでしょう。
しかし、「大人」がそうした彼らに迎合するのは害悪以外の何物でもない。
いうまでもなく、憐憫はもちろん、安易な迎合や同情も更に相手を弱体化させるからです。
今の日本の状況は単に「お金持ちの過保護のボンボン、いなかそだちの腹を減らしたやんちゃ者に全く歯が立たず」といったことに過ぎない。
このままだと、失われた20年どころか失われた50年にもなりかねない。
この、お金持ちのボンボンが急速にお金持ちではなくなって行こうとしていることを考えれば、ここから衰退の20年が始まる気がしてなりません。
『ただのひ弱なボンボン、身ぐるみはがれ、大ケガをして叩き出される。』
そうしないためのセンターピンは何なのか?
早く確信が持てる答えを見つけたいものです。
SNSを選考の評価対象にするだと?
この数日、立てつづけに企業が採用の一環としてSNSを利用しているという報道を目にしました。
本気だろうか?
SNSで公開されている(記載されている)情報は、面接で得られる「一時的な」ものではなく長期間に渡り、かつ、そもそもが自分を飾ったりすることを目的にされているものではないので、応募者「その人の素」が見て取れるというのが、そうした企業の言い分らしいです。
ちなみにサイバーエージェントもその一社。
はぁ~脱力。
おめでたいにもほどがある。
そうした企業の人事担当者は、就活生やその周囲の人間数百人が結託してお互いに有利な情報だけを意図的に「盛る」可能性については考慮しないのだろうか?
そこに書かれていることの裏を取っているのだろうか?(内容を鵜呑みにしてないか?鵜呑みにしなかったとした場合でも、実際には、その内容の真偽をどうやって確かめる?)
実際、就活セミナーを企画する企業の一部では、セミナー参加者同志を組織し、そうした指導もしています。(キツネとタヌキのばかしあい)
全部がそうだとは言いませんが、某報道で取り上げられていた企業の「選考の現場」では、採用担当者によるそれこそ目を覆いたくなるような非常に低レベルのやりとりがなされていました。(あえて、ここでは詳細は取り上げません)
普通は、入学試験は年に一度の一発勝負。
そして採用面接は一生に一度の一発勝負。
つまり一期一会。
それで良いではありませんか。
一期一会を大切にするからこそ、Something greatが起こる。
僕はそう信じています。
無力感というか、やるせなさ、徒労感を感じるこの頃ですが、、そうとばかりも言っていられない。(  ̄っ ̄)
やることは山積しています。
急がねば!
ユルユルアマアマフワフワ社会
今日、色んな所で複数回に渡って「今、褒めることが注目されています」というフレーズを聞きました。
・・・はぁ~、脱力。
この期に及んでも、これですか?
今の日本に一番必要なのは褒めることなんかじゃないと思います。
それでは何が必要か?
鞭であり、喝であり、厳格さであり、逆境でしょう。
『お前なんか潰してやる!』
そう言われても全然動じない。
いな、むしろ、そう言われると益々発奮する。
そうした図太さこそ今の日本に一番必要なものだと思います。
なんだか、これから一層、日本が衰退し、ガラパゴス化していく証左を見た気がしました。
僕のこの捉え方が間違っていることを切に願います。