9月2日

 関東大震災から100年進歩が無い。

 火災避難所がない。

 江戸時代の方が多い。

 訳300の藩の屋敷が、防火林と池を備えて、寛永の大火後に、市中にばらまかれ、その中へ市民を受入れる仕組みを幕府は作った。

 関東大震災、3月10日下町大空襲で、下町で最も死人が出たのは、陸軍の食糧倉庫の避難所、最も生存出来たのが、少し離れた清澄庭園。

 前者は、約30000人死に、後者は約15000人救った。

 前者は、幕府の米蔵の後に、大震災時は鉄骨レンガ造りに囲まれた広大な敷地の避難所。戦災時は鉄筋コンクリートの4,5階建倉庫に囲まれた広大な場所の避難所。

 清澄庭園は、旧大名屋敷跡の岩崎家別邸だった。

 火が出て避難する場所には、木々と池が必要なのだ。

 石で囲んでも炉にしかならない。全員死ぬ。

 木は水を地中から吸い、火から自己防衛する。池は水脈と繋がっているので、消化水に使えた。

 江戸時代までの人は利口で、明治以後の近代人は馬鹿。

 情けない話だし、大変怖い話だ。現実だからしょうがないが。

 直す方法が解らない。物事を正しく見ないと死ぬ。要注意。

 今は、殆ど都内に藩の屋敷の規模の森と池は無い。特に外堀の外側で武蔵野線内側には無い。

 100%起きる関東地区の大地震でこの状態だ。

 火災の延焼は、簡単には止まらない。

 今は、電子機器にはリチューム電池が内臓され、破壊に拠る発火は相当箇所から起こるだろう。

 阪神淡路大震災で解った様に、道路は車両で埋まり、消防車に拠る消化は不可能で、又ヘリコプターからの消化も、近付けば火を煽るので、高空からの散布で、数区単位の消化しか出来ないから当てにならない。

 だから、子供達には都内には住むなと言っている。

 かみさんは、朝から東小金井のお茶教室で、3種の点前を、それぞれのレベルに合わせて教えている。大変だ。達人の域。

 昨日、簾の風炉先が涼しげで良いと準備に行った。お茶の先生のかみさんは大変だ。

 茶碗も秋色に入れ替えた。

 天目、白天目、黒と赤楽は点前に必要なので置いてあり、秋草茶碗が秋色。

 今日はここまで。