6月16日

 表題を「徒然お茶日記」から、「小金井お茶日記」、「朝霞・小金井お茶教室日記」、今の「徒然お茶教室日記、朝霞・小金井」までで4代目。

 検索のしようが無い。よって見る人0.

 共通しているのは、お茶だけ。

 元々、日記を書く習慣が無かったので、始めた作業。

 我ながら続いているほうだ。満足。

 日本画の食事会に持参する白薩摩について一言。忘れないうちに復習。

 慶長の役で、朝鮮半島から陶工達を、各大名が連れて来た。

 明の景徳鎮で確立された陶磁器製造技術は、そこに出入りした陶工達が、国に戻って其々広めた。

 景徳鎮から技術が完成する以前に、地方に陶工が戻れば、途中の技術が戻った場所に残る。

 朝鮮半島の多くの場所は、途中の技術が残っていたので、その陶工を日本に連れて来ても、途中の技術。

 唐津、伊万里、萩、等々多数が、景徳鎮の完成レベルでは無かった。

 中に1人、島津が連れて帰った、沈壽官という陶工が、略景徳鎮の完成した技術を身に付けていた。

 薩摩で、原料の白土を見付け、再現した。 以来、150年間、門外不出としていた。

 ひょんな事から、11代将軍の嫁さんに、薩摩のお姫様が決まった。

 そこで、嫁入り道具に、白薩摩の陶磁器を持たせた。

 金、銀、その他、多種の顔料を透明にコートする技術が、世に出た瞬間である。

 お嫁入り後も守って260年いて、明治になりオープン。

 豆彩が幻となったのと同じ理由で、透明な釉の技術は、中国本土、周辺国にも無かった技術で、唯一無二だった。

 薩摩は、言葉も特殊な方言にして、門外不出していた。

 パリ万博に、薩摩のブースが在ったのも、この技術欲しさに、フランスが積極的に招いたからだ。

 薩摩は、江戸時代を通じて、琉球経由で、密輸しており、外貨の多くが、この陶磁器通称白薩摩だった。

 欧州では中世すでに、明の陶磁器が、評判で、在ったが、ヌルハチに拠る、破壊で壊滅して、一つ古い染付でも、高額で取引されていた。

 欧州は、その原料のコバルトを求めて、アフリカの争奪戦をやり、産地のコンゴを抑えたのは、ベルギー。

 ベロ藍のベロは、ベルギーのベロなのだ。

 薩摩の砂糖は、国内向けの話で、島津の主力輸出品は、薩摩焼。

 今日はここまで。