5月24日
昨日利休さんの点前の話をした時、秀吉の言葉も残っている、と書いた。
秀吉は、利休にお茶を習っていない。
山崎の合戦以後は、習っているだろうが、信長の家臣として働いていた時には、茶頭は、信長直属で、家臣が習うなどとんでもないこと。
信長に、ことわれば出来ただろうが、柴田以下多数のお茶をする事が許された家臣の中で、他を退けて習うなど不可能。
信長の茶頭は、紹鴎の弟子が2人で、古渓宗陳の弟子が利休なので、当然紹鴎の弟子の誰かに習ったはず。
古渓宗陳の絵。
秀吉以外は、侍出身なので、其々その地の誰かに習い、信長が京都に進出した後は、当然紹鴎の弟子の誰かに習っただろう。
津田宗及は、堺でも京都でも、町方の元締めだったから、いくらでも紹鴎の弟子を紹介出来ただろう。
大名からすれば、宗及は、戦道具、戦場での食料を販売する商人なので、繫がりは大変深かったはず。
利休が、台子の点前で秀吉にお茶を出した際、秀吉の習った点前と違って、一部を省略した点前だったので、「覚えと違う」と指摘したのが、残っている。
秀吉は、お茶が相当出来た人。
映画やTVのお茶の出来ない秀吉は嘘。
千家の謂れは、上の部分と以下の部分。
利休は、こうゆう理由で省略したと答え、以後、利休の点前を、秀吉が真似たので、以後そうなったと在る。
今も、各家元が献茶には、台子の点前で行っている。
この話から解る様に、当時、すでにお茶の点前は確立していて、侍と町方の大店に普及していたのが判る。
今日はここまで。
