4月19日
昨日書いたブログが残っていなかった。
パソコン音痴が、何か余計な事をしたのだろう。
お稽古で、この所使っている茶碗。
桜。菊桐と赤楽。
菊桐は、便利。季節に関係なく使える。太閤さんに感謝。
桐は、五三の桐が有名だが、お茶の場合は、太閤さんなので、五七。
太閤さんは、天皇に次ぐ、関白だから、摂関家の五三の桐を越える為、五七とした。
お茶で、太閤さんのものを多く使うのは、利休の雇い主であったから、ではない。
お茶を広く世の中に普及させたのは、信長、秀吉だから、が正しい。
しかし、信長以前に既に、お茶は、武士の嗜みであった。
蝮の道三が、信長にお茶を出し、作法が出来るかを見たので、解る。
お茶の最盛期は、室町初期、尊氏の闘茶禁止令の時。
台子のお茶が、パターン化されたのが、八代義政の時。
大仁の乱の時、地方へ帰る武士が、都が危険で逃れた貴族、商人から地方に拡散した。
それが、普及し、大店の町方に普及したのが、戦国時代。
松屋茶会記、天王寺屋茶会記が、残るほどだった。
信長は、お茶政道を敷いたので、大名、小名からその家来にまで、広まった。
北野大茶会は、お茶が日本中に既に広まっていたから、出来たのであって。
北野大茶会で、日本中に、お茶を広めたのではない。
日本中の海運を抑えていた太閤さんだから、大茶会の看板に、来ないとお茶をさせないと、書けたのだ。
今日はここまで。

