2月26日

 利休忌が近い。

 表は秀長、裏は利休と言われるまでになった利休が、何故急に切腹となったのか。

 千家の家伝では、切腹。

 唯、書類としては、幕府に出した、切腹の記載のみ。

 家伝は、口伝。

 当時の現存資料では、逃げたとなっている。

 切腹した翌年、九州の名護屋城(朝鮮出兵の前線基地)に滞在中の、秀吉から親族への手紙に、「昨日は、利休が来て、茶事をしてくれたので、お腹の具合が治った。」と在る。

 切腹後に、生きていた。

 堺の利休宅を、3000人で囲んで、中で何が有ったはかは不明が、正しいのだろう。

 古田織部と細川幽斎が、見送った話も有名だが、利休は朝に堺から京に呼び出され、その日の帰りに、その情報を得て、川辺に立つのは不可能。

 事前に知っていた筈、となる。

 細川家の初期の会計記録が現存していて、利休の縁者に300石と在る。

 細川が、逃がし、匿い、面倒を見たが、正しい様子。

 利休さんは、隠居暮らしをしていた事になる。良かった。

 それで、幽斎の点前が、利休さんのフルコピーと言われる理由も解る。

 幽斎も、早くに隠居した。

 熊本で、直伝を何度も受ける為か。

 よって、フルコピーが出来た。

 他の弟子達は、知っていても近寄れない。 

 要約すると、秀長が死んだので、5奉行に交代する為、切腹話を作って、交代した。

 らしい。

 今日はここまで。