1月16日

 初釜の濃茶で使う、9代不見斎の「鶴」の茶杓は、我家の家宝。

 銘の「鶴」の様な、黒い影が在る。

 不見斎は、天明の大火で、部分的に残った今日庵を再興させた、偉い家元。

 御所も焼け、完全復興を望む、光格天皇と、天明の飢饉を理由にそれを拒む、老中松平定信の話は有名。

 最後は、朝鮮勅使を受ける担当の、天皇が、元寇の時の執権北条時宗の、「外交は朝廷、内政は征夷大将軍と、元への回答を朝廷に振った。」の話を持ち出し、今の京都御所の建設が決まった。

 この事が、黒船来航から明治維新への動きの原動力となって行った。

 江戸幕府では、井伊直弼以外は、この原則守り通した。律儀。

 京都は、この大火で、旧の朱雀通の東側が略、全焼した。

 朱雀通りの幅は約80m。大火の延焼を止められる幅だった。

 前漢の時代に、解っていた様だ。

 大路は、パレードをする道ではなく、大火の延焼止めの大通り。

 人は、勉強しないと馬鹿になる。

 東京は、こんな広い道は、内堀通りだけ、環八の内側は、震災、戦災の時は、覚悟が必要。

 消防車は、阪神淡路地震では、渋滞で動けず。

 電気も止まるので、モーターのポンプは動かない。

 朝4、5本の細い煙が、夕方には市内の半分近くを焼いたのは、記憶に新しい。

 今日はここまで。