8月17日
 10日から来ていた、長男一家が帰った。
 静になったが、楽しかっただけに、少々さみしい。
 昨日、誕生会で、鰻の蒲焼を食った。
 三島桜屋の白焼とふわふわさっぱり蒲焼を思い出した。
 携帯の写真の送信が出来る様になった。宗祇の墓。
 
 小さな墓で、如何にも宗祇らしい。
 箱根で死んでも、弟子達が遺言通り、三島に埋葬した。
 2003年500回忌で整備した。
 でも、詩歌の弟子達は偉い、墓は建てるし、その後も古今伝授の内容を広めた。
 侍が貴族に馬鹿にされ、平家は全ての文化的習慣、その他を勉強し、貴族を凌駕した。
 その中心が宮中行事の宴で、馬鹿にされない為であった。
 この宴の続きが、各種の寄り合いである。
 馬鹿にされると、宴の主導権が掴めない。
 主導権が掴めないと、物事が進められないのは、今も同じ。
 鎌倉、室町期は、寄り合いの多くは、歌会、連歌会なので、各地の豪族、守護も、盛んに習ったし、開いた。
 宗祇の話にある、白河の関で、籠を背負った農婦に道を尋ねた時の事。
、宗祇の上の句を受け、下の句を返された。
 驚いている宗祇に、その婦人が、昨日は1000句読んだと言われ、出直した様に、当時全国に普及していた。
 特に、連歌は、言葉遊びで、ある程度習えば、資金0で出来る、文化的趣味。
 これは、万葉集に、防人、詠み人知らずで、多数の句があり、その延長で和歌が、全国に普及していた事を示す。
 唯、一般の人は断片的に、知っていても、万葉集から新古今集までの歌は知らなかったはず。
 貴族と古今伝授3家で抑えていたから。
 宗祇と弟子達の
写本化、その後の製本化で、万葉からの庶民の素養を、一気に開花させ、連歌⇒俳諧⇒俳句に進む。
 一方、寄り合いの宴は、連歌、聞き茶、闘茶へ進み、足利尊氏の闘茶禁止令で、闘茶は一度止まる。
 その後は、連歌会+宴⇒連歌会+聞き茶(太平記の六角の宴の頃)
=宴⇒連歌会+お茶飲み=宴(村田珠光の頃)⇒連歌会orお能or狂言+お茶のみ=宴で戦国期に入る。
 天王寺屋茶会記、松屋茶会記の最初の頃の武野紹鴎の頃へと進む。
 連歌会、軸を中心に
道具の拝見会+茶会で、台子点前も確率されている。
 後は皆様が知ってるお茶の歴史になる。
  お茶に興味のある方は、
かみさんのお茶教室へどうぞ。
 朝霞のは、我家。
 北朝霞、朝霞台から北へ、徒歩17分、宝蔵寺交差点を左(西)へ5分、白い3階建てマンションを右(北)へ100mで着く。アコレとたちばな幼稚園は行き過ぎ。
 志木からは北東へ20分で着く、途中にアコレとたちばな幼稚園が在り、そこから東へ150mで先の白い3階建マンション。
 前に駐車場も有り、車もOK。