(過去記事 加筆)
コアラが6年になり、
急降下する成績……
揺らぐ志望校
頻発するバトル
そんな時、
ワタシ(達)を大いに励ましたモノがある。
それは……
姉コアラの、
最後のサピックスオープンの結果だ!
キリッ
よりにもよって、最後の模試が、
通塾中で一番悪い成績だった代物だ!
ヒィッ
第一志望から偏差値が
10以上も離れてしまった代物だ!
ゲロゲロゲッ姉の受験当時……
“それ”は、
見たくないものであり
しまいこんでいたものであり
憂鬱の根源だった。
絶望の紙っぺら。
それでも、第1志望に合格すると
“それ” の持つ意味は一転する
コアラの受験当時……
“それ”が、
眺めていたいものであり
頻繁に引っ張り出すものであり
元気の源になった。
希望の紙様。
“それ”は
これでも受かるんだ
数字で落ち込まない
と、わたしに教えてくれるのだ。
当事者であった時は、
これじゃ受かるわけない
どうするの?
と、わたしに語りかけるものだった。
この、
絶望と希望を
併せ持つ紙。
コアラの受験の最後には、
いつでも見ていられるよう、
自分を鼓舞し続けられるよう、
広げて壁に貼ろうとして
姉コアラの逆鱗に触れてしまったが
物事は、
立ってる位置で意味が変わる。
時間の経過でも意味が変わる。
ある人にはいいことで
ある人には良くない
と、いうこともたくさんある。
だから、
一方的なモノの見方で
自分を落ち込ませることはない。
と、最近思う。
自分を落ち込ませることはない。
と、最近思う。
物事は本来
なんの意味も持たず
ただ、存在する。
意味を与え、感情で彩るのは
わたしたち自身なのだ。
どう、とらえようと
どう、感じようと
誰にも何からも
ただ、存在する。
意味を与え、感情で彩るのは
わたしたち自身なのだ。
どう、とらえようと
どう、感じようと
誰にも何からも
強要されない自由 がある。
それが、
それが、
世の中の素晴らしさだな……
と、日々実感している
これから、受験が始まる皆様。
万万万が一、
と、日々実感している
これから、受験が始まる皆様。
万万万が一、
受からなかった時、
その事には本来
その事には本来
なんの意味もありません。
物事は、ただ
事実としてそこに存在するだけ...
結論はあちらが出すのだが、
わたしたちには、その経験を、
失敗にするかプラスにするかの
結論はあちらが出すのだが、
わたしたちには、その経験を、
失敗にするかプラスにするかの
自由 がある。
どう感じるかの自由も
この経験をどう生かすかの
どう感じるかの自由も
この経験をどう生かすかの
選択の自由も
わたし達は持っている。
このことを
わたし達は持っている。
このことを
子どもに伝えられる親でありたいと
思ってます。
希望通りにならなかった時
悲しむのは仕方ないけれど、
この時に、
悲しいことは不幸とは違う...
悲しむのは仕方ないけれど、
この時に、
悲しいことは不幸とは違う...
ということを
親がしっかり認識していないと、
《不幸な受験》
親がしっかり認識していないと、
《不幸な受験》
になってしまう可能性がある。
喜怒哀楽と、
幸、不幸は、全く違うこと。
合格、不合格を
幸、不幸と結びつけず
喜んだり、
怒ったり、
悲しんだりしながら、
しあわせな受験をしたい。
それには、
しあわせな受験をしたい。
それには、
どんな結果でも
子どもを労うこと、
お疲れ様!と、抱き締めること。
そして、
子どもを労うこと、
お疲れ様!と、抱き締めること。
そして、
頑張った自分と子を、
誇りに思うこと。
誇りに思うこと。
この先
大学受験も
就職も
恋愛も
第1志望じゃなくても
第1志望と同じようにしあわせになれる。
いや、
それ以上に
しあわせになれる人も多い。
勿論、
第1志望を勝ち取るために努力すること
第1志望を実際に勝ち取ることは
理想だし、素晴らしいこと
それでも、
そうならないことを必要以上に恐れたり
そうならなかった時に
勿論、
第1志望を勝ち取るために努力すること
第1志望を実際に勝ち取ることは
理想だし、素晴らしいこと
それでも、
そうならないことを必要以上に恐れたり
そうならなかった時に
必要以上に落ち込む事もないということを
伝えたいと思ってます
伝えたいと思ってます
と言いながら
子どものスマホの
待受画面にしたい画像
↓↓↓
それでは皆様
ごきげんよう〜