なぜ政治家を目指したの?とよく聴かれます。



そんな時、いつもこう答えてます。



昭和47年12月の衆議院議員選挙に父が秋田から出馬し、敗れました。



次の日から、借金とりが毎日、東京練馬の自宅に。



その時、私は小学校5年生。



世のため、人のために頑張ろうとしたのに、なぜ家族がこんな思いをしなければならないのか、、。



日々の生活が激変した小学校5年生の私には、何がなんだかわかりませんでした。



その時、絶対、政治家だけはなるまいと。



しかし、風呂で父の背中を流しながら、なぜお父さんは選挙に出たの?と。




昭和6年生まれの父が祖父母と樺太に渡ったのが昭和5年。



父が祖母のお腹にいるとき。



菅原家は、当時、日本領だった樺太で、炭鉱等の事業を興すも、昭和20年8月、ソ連が日ソ不可侵条約を破り、日本人を焼き討ちに。



恵須取という街は地獄絵。



大泊という港につながれていた3艘の船に、先にみんなを乗せ、最後の船に乗った菅原家。



先の2艘が木っ端微塵にソ連軍に撃沈されました。



菅原家の乗った最後の船だけが北海道の最北端に辿り着きました。



父は運命を感じたそうです。



戦争はダメだ。



故郷を取り戻したい。



平和を守りたい。



父はその想いを抱き、昭和47年の闘いへ。



その時の朱色のポスターのスローガンは今でも鮮烈に覚えてます。



『沖縄返還万歳!次は、北方領土だ!』



その夢破れ、父ができなかったことを私がやろうと決意しました。



それがすべてのスタートでした。