父の日を来週に控え、忘れられないことがあります。

私の父は平成9年の3月に65歳の若さでなくなりました。

ちょうど練馬区議2期目の時でした。


国会議員を目指そうとしたのは、小学校5年生の時です。


父親ができなかった夢を実現しようとしたのがきっかけです。


菅原家はもともと秋田県がルーツですが、戦前、日本領であった樺太に渡り、炭鉱や農業の事業を展開しました。


父は昭和6年に南樺太で生まれました。

幼少時から恵須取と言う街に住み、大自然を相手に一家の大黒柱として働いてきたそうです。


ところがヤルタ会談を機に、それまで日ソ不可侵条約を結んでいた旧ソ連が樺太の日本人を急襲してきました。

多くの日本人が逃げ回り、最後、南樺太の最南端の大泊港へ。

当時14歳だった父は家族とともに、そこにつながれた3艘の船の先の2艘に多くを乗せ、最後の船に乗ったそうです。

ソ連軍が次々と日本人を焼き討ちにし、追いかけてきたゆえ、3艘目の船はもう助かるまいと。

ところが運命とはわからないものです。

先に港を出たはずの2艘の船が、空襲を受け、乗っていた日本人全員が木っ端みじんに樺太の海に沈んでしまったのです。


そして、菅原家と数名が乗った3艘目の船だけが命からがら北海道の最北端に着きました。


そして、実家のある秋田にたどり着いたそうです。


そのような原体験をもとに父は二度と戦争はやってはならない、自分が生まれたふるさとを取り戻す、という信念を胸に抱いたとのことです。

ふるさと南樺太を取り戻すには、北方領土を取り返さなくてはならない。

その想いを引っさげて、昭和47年、父は秋田から衆院選に挑戦しました。

その時の父のポスターはモノクロで、キャッチフレーズは、『沖縄返還万歳!次は北方領土だ!』

雪深い冬の秋田の街を一軒ずつ歩いたそうです。

ところが結果は惨敗。

当時、練馬で生まれ育った私は小学校5年生で練馬で父方の祖父母と弟、妹と留守を守っていました。


父と母が二人で衆院選を闘う姿を目の当たりにはできませんでしたが、練馬で留守を守ることで選挙の手伝いをしていたとの想いがありました。


今のように全国の選挙の様子がテレビから映し出される時代ではなかったゆえ、祖母が黒電話で秋田の実家のテレビから聞こえてくる父の政見放送を聴いている姿を鮮明に覚えています。

当選と落選、こんなに違うものかという体験をしました。


翌日から練馬の家にも次々と業者が支払いを求めてやってきました。


土足で上がろうとする輩もいて、そんな人に祖母は「まずは靴を脱いでから上がってください!」とピシャリ。


落選の現実を子どもながらに実体験しました。

そして、その後、父は練馬に戻りました。

風呂場で父親の背中を流しながら聴いた話が私を突き動かしたのです。

それが先ほど述べた大泊港の3艘の船の話です。

そして、大学卒業後、サラリーマンを経て、平成3年、政治家としてスタートとなる練馬区議会議員に挑戦することとなりました。

あれから30年。

衆院選に挑戦してから19年の年月が経ちました。


道半ばゆえ、初心を忘れず精進を重ねてまいりたいと思います。