トレンチコートの歴史
〜History of trench coat〜
【完全版】
【序章】完全版作成について
こんにちは☆
いつも「洋服屋の一生モノブログ」をご覧いただき、本当にありがとうございます!
ブログ運営者のタニヤンです☆★
この記事は、昨年連載記事として4回に分けて書いた「戦争とファッション〜第1次世界大戦とトレンチコート 〜」を「トレンチコートの歴史【完全版】」として1つに再編集したものです。
☟過去の連載☟
僕のブログは、1記事平均3,000字近くあるものが多く、再編集すると10,000字近くになりますので、最後まで読むのはボリューム的にキツイかもしれません(汗)
少しづつ読みたい方は、今まで通り上記のリンクから個別にご覧ください☆★
僕は、「服飾史という時間軸の中で服装を考える」という作業を通してこそ、服そのものの奥深さや魅力が伝わり、より服装を楽しめるようになると思ってきたし、実際そうなれば良いと願い、このある種ニッチなブログを発信し続けています☆★
同時にそれは、百貨店やそこにぶら下がる多くのアパレルメーカーなどの悲惨な現状を見ればわかる通り、リアルな店舗を構える大手企業が2000年代に入り戦略的に放棄してしまった部分であり、結果それが致命傷となり、そういった業態は終焉を迎えつつあります。
しかし、服飾・服装というものは形を変えながら今後も残って行くし、それも未来から見れば「服飾史の中のほんの一部」に過ぎないのだろうと僕は思うのです。
そういった意味で、この記事がこれから服飾業界を目指す若者あるいは、現在この業界で服の魅力を伝えようと真摯にお客さんと向き合っている同志たちにとって、「服飾辞典」のような存在になればこんなに嬉しいことはありません。
服装・服飾の答えはすべて歴史の中にあります!
それを多くの人と共有したい!
それが僕の願いです☆★
【1章】戦争とファッション
「戦争とファッション」
このテーマは、洋服の発展を考える上で、最も重要な事項のひとつであるのと同時に、とても悲しく皮肉なものでもあります。
しかし、あまりに認知度が低い〝このテーマ〟を皆さんに知ってもらうことで、「ファッションとは何か」「今僕たちが着ている洋服がどのように進化してきたのか」という根源的な問いに対する「一つの答え」になるのではないか。と考えています。
話は1914年〜1918年の第一次世界大戦。
そんなに昔の話ではないのです。
今回参考文献として使用した、『WORK WEAR⑤』(ワールド・フォトプレス社 出版)の中に、僕が思わず引き込まれてしまった、グラフィック・デザイナー長澤均さんのこんな文章があります。
「ファッションは束の間の夢でありながら、実用品のひとつである。それゆえ、戦争という流行とは無縁の〝殺し合いの場所〟でさえもファッションは進化し続けてきた。」
「戦争は、時として美しく合理的なファッションを生むが、ファッションが戦争を招来したことは一度もない。ただ一言、それは美しくないからだ。」
僕はこの2つの文章には、今回のテーマの結論が凝縮されていると思っています。
【2章】第一次世界大戦とは何だったか。
ここで、第一次世界大戦とは何だったか。についてお話ししておかなければなりません。
結論から先に言うと、第一次世界大戦とは、人類が歴史上初めて経験した「大量虐殺戦争」でした。
キーワードは、「新兵器時代の到来」と「塹壕戦(ざんごうせん)」です。
この2つが、当初1年以内に終わると予想されていたこの戦争を、3年も長引かせた要因と言っていいでしょう。
以下、それを詳しく説明していきます。
19世紀までの戦争は、古風な軍服とともに、軍隊同士の個別の戦いといった、古典的な戦闘形態の名残がありました。
しかしそういった古式の戦闘形態は、20世紀に入り一変してしまいます。
簡単に言うと、19世紀までの「突撃型の短期決戦」から「消耗型の長期戦」に変わっていきます。
では、なぜそれ程までに劇的に変わっていったのか。
その一つ目の要因は、新兵器の登場と火砲・機関銃の発達。つまり、「新兵器時代」の到来です。
ちなみに第一次世界大戦を期に本格的に登場した兵器が、戦車や飛行機・毒ガスといったものです。
しかし、この時はまだ現在のそれとは違い、飛行機は戦闘機というよりは偵察機に近く、戦車も現在ほどの破壊力は持っていませんでした。
それよりも、圧倒的な破壊力を持って発達したのが、火砲と機関銃でした。
これら銃火器の性能は前時代の比ではなく、一気に「大量殺戮」が可能になり、死傷者を激増させました。
その圧倒的な威力とあまりの損害の大きさを前に、ドイツ側もイギリス・フランス・ロシアを中心とした連合国側も、生身の体を晒して戦うことができなくなり、
その結果どうなったかというと、
双方「塹壕(トレンチ)」と呼ばれる「溝」を地面に掘ってそこにこもり、身を隠しながら戦うようになりました。
これが、戦闘形態を激変させた2つ目の要因「塹壕戦」です。
西ヨーロッパでは、ドイツ軍と連合国軍が向かい合って数百㎞も続く塹壕地帯が作られたそうです。
【塹壕戦の様子】
これによって戦況は膠着状態に陥り、1914年6月の「サラエボ事件」を機に勃発したこの戦争は、長期化の一途を辿ります。
同時に兵士たちは最初の冬を、ただ大地を堀っただけの「溝」であるこの「塹壕(トレンチ)」の中で越すことになってしまったのです。
塹壕内での生活は、精神的にも肉体的にも過酷さを極めました。
それは主に〝2つの敵〟との戦いだったと言えます。
一つは当然ながら、昼夜ひっきりなしに繰り返される砲撃や、動くものなら何でも撃ってくる敵の狙撃手、毒ガスなど「敵軍の脅威」です。
そして兵士たちにとって〝もう1つの敵〟となったのが、
頻繁に降る雨による厳しい冬の寒さであり、その後に残った泥や水溜まりだったのです。
ひとたび雨が降ると、地面をただ掘っただけの極寒の「塹壕(トレンチ)」内部はぬかるみ、泥まみれになります。
破傷風やペスト・発疹チフスなどの病原菌が蔓延し、寒さと湿気で体がいつも濡れた状態にあり、凍傷になる兵士が続出するなど、衛生状態は最悪でした。
連合国軍の塹壕(トレンチ)内では、兵士の体全体を覆い、雨(水)の侵入を防ぐ衣服の調達が急務となっていました。
【3章】第一次世界大戦とトレンチコート
そこで連合国軍のイギリスが軍に支給するサービスキットの中に導入したのが、ひとつのコートでした。
「バーバリー(Burberry)」
現在の「トレンチコート」です。
【1916年のイギリス軍士官向け装備品一覧表】
※「In Pack and Haversack」の1番目に「Burberry」の名で現在のトレンチコートが支給されていることがわかります。
第一次世界大戦期において「トレンチコート」は塹壕内の兵士達にとって、ユニフォームであったと同時に、唯一の心強い〝味方〟でした。
さらに、トレンチコートは開戦直後の1915年に登場した「初期型」に始まり、幾度となく改良が加えられ進化し、1918年に「完成形」に至ります。
そして、その開発を一手に担ったのが、「バーバリー」と「アクアスキュータム」だったのです。
【4章】1915年の「初期型トレンチコート」
では、1915年に登場した「初期型トレンチコート」とは一体どのようなものだったのでしょうか。
今回参考文献に使用した『WORK WEAR⑤』(ワールド・フォトプレス社)の中で、1915年イギリス・ロンドンの服飾専門誌である『ウエストエンド・ガゼット』誌によって紹介された、初期型トレンチコートの全体像が解説されています。
当時は『ニュー・ミリタリー・〝トレンチ〟コート』として紹介されたようです。
それによると、
▪ダブル前10個ボタン型(ボタンは全て、ブラウンのレザーボタンだったようです)
▪ボタンを上まで全て留めた着方
▪カラー(襟)は、「ミリタリー・カラー」
※ミリタリー・カラー
☞ 日本人が俗に「ステン・カラー」と呼ぶものに近いものです。
▪肩は、「セットイン・スリーブ」
※セットイン・スリーブ
☞いわゆる「背広肩」のことで、スーツの上衣と同様の肩の形状を指します。
▪肩の上に「エポーレット」と呼ばれるボタン留めストラップ →この当時は装備というよりも、階級章を付けるためのものといった印象。
▪共地のベルト付き→のちに手榴弾を装着することになる「Dリング」は、この時はまだ登場していません。
▪両脇に大きなマチ付きの「パッチ&フラップ型ポケット」が付く ☞この当時のポケットは、のちの「スラッシュ・ポケット」と違いマチとフラップがついており、かなりの収納力があったと考えられます。
▪内側にボタンによる着脱式の「インター・ライニング」☞素材は「オイル・シルク」のものと、羊の毛皮で作られたものがあり、標準装備されていたのがオイル・シルクのもので、毛皮のインター・ライニングは別売だったようです。
▪採用された生地は「カーキ・ドリル」
※ドリル地
→ 「drill」 かなり古くから存在する織物のひとつで、綾織の非常に緻密に織られた丈夫なコットン地のことです。この頃はまだ「ギャバジン」の言葉は使われていないようです。
以上が、1915年当時の「ニュー・ミリタリー・〝トレンチ〟・コート」の全容です。
まとめると下の図のような形状のものだったようです。
【1915年当時のトレンチコート】
では、この「初期型トレンチコート」は一体どこから現れたのでしょうか。
往々にして服飾というものは、「以前からあるものの進化形」である事が多く、何もないところからいきなり生まれてくる。ということはごく稀なケースを除きありません。
そして、やはりこの「初期型トレンチコート」にも、その原型となるものが存在するのです。
【5章】トレンチコートの原型となったもの
時代を少しだけ巻き戻して、時は1910年頃。
この時期にほぼ同じ形状をした2つのコートが登場します。
その名は「タイロッケン・コート」と「ロッカビー・コート」
これらのコートをひとことで説明すると、「前ボタンのないトレンチコート」です。
つまり、両前(ダブル)の形状ではあるのですが、ボタンはなく、バックル付きの共地ベルトをウエスト部分で締めることによって着用する。というスタイルのコートです。
ちなみに、前者は1910年にバーバリー社が開発したもので、「タイ(帯)でロックして着る」ことから「タイロッケン」と呼ばれるようになりました。
一方後者はというと、1912年にアクアスキュータム社が特許を取得していて、「共地のベルトをまるで錠(ロック)のように使って着脱する」ことから「ロッカビー」と呼ばれるようになります。
【バーバリー社のタイロッケン・コート】
形状や名前の由来はともかく、この「タイロッケン・コート」と「ロッカビー・コート」がトレンチコートの直接の原型である事は、歴史的に見ても間違いないようです。
しかし、どうしてほぼ同じ時期に同じ形状のコートを、競合会社同士が発表できるのか?
考えてみたら、とても不思議ですよね?
皮肉なことに、その謎を解く鍵もまた、「戦争」にありそうなのです。
1899年〜1902年に南アフリカで勃発したボーア戦争。
この戦争は、イギリスが南アフリカの植民地化を目論み、現地に入植していた「オランダ系アフリカーナ」と戦った戦争です。
このボーア戦争時から、英国陸軍省はすでに「軽量で防水性に優れた衣服」の必要性を痛感していて、密かに英国陸軍省とバーバリー、アクアスキュータムの3社間での共同開発を進めていた。という説があります。
そして、いわばその中間報告としての両者の成果が、「タイロッケン・コート」であり、「ロッカビー・コート」だったというのです。
しかし、もしこの時に3者間で、実際に共同開発が行われていたとすると、バーバーリーとアクアスキュータムが同時期に、それもほぼ同じ形状のコートを発表したことの辻褄が合うんです。
と言っても100年以上も前の話なので、今となってはこういう説を題材にして想像を働かせていくしかないのですが、考え出すととても面白いですよね。
と同時に、古くからある洋服の発展の歴史には、必ずと言って良いほど「殺し合いの歴史」が絡んでいるという、悲しさと虚しさが湧き上がってくることも事実です。
このように、ある服の歴史を追っていくと、必ずどこかでその原型が現れます。
そして、それを追っていくと、またその原型が現れます。
これが服飾の面白さであり、なんとも言えない奥深さでもあるのです。
【6章】トレンチコート「初期型」から「完成形」へ
1915年に登場した「初期型トレンチコート」のディテールをさらっとおさらいすると、以下のようなものでした。
▪前ボタン10個
▪ミリタリー・カラー(ステン・カラー)
▪セットイン・スリーブ(背広肩)
▪共地のベルト
▪両脇にマチ付きで大型の「パッチ&フラップポケット」
▪生地は、「カーキ・ドリル」(ギャバジンの表記はまだない)
▪インター・ライナー付
これが、第一次世界大戦終結に向かう1918年までの3年間で、どう変化していったのでしょうか。
結論から言うと、1918年頃にトレンチコートは、ほぼ現在の形になります。
逆説的に言えば、現在僕たちが何となく着ているトレンチコートは、驚くべき事に、99年前からほぼ形を変えていないということになります。
それでは、それを1918年頃に紹介されている、トレンチコートの広告と、70年代に製造されたアクアスキュータムのトレンチコートを見ながら、検証していきましょう。
【1918年に掲載された、イギリスA・A・タンマー社パリ支店のトレンチコート】
【1970年代のものとして、文献に紹介されているアクア・スキュータムのトレンチコート】
これらの写真を参考に、1915年の「初期型トレンチコート」からの変化を見ていくと、
▪「チン・ストラップ」の追加
→上の図のように、襟を立てて着た時に、雨風の侵入を防ぐため、あご(チン)の下で襟元を固定するストラップが装備されました。
▪「ラグラン・スリーブ」の正式採用
▪右肩に「ガン・フラップ」の追加
→上の「A・A・タンマー社」のトレンチコートにはまだ現れていませんが、この時期に右肩部分に上からもう一枚生地が充てられます。
この仕様は、兵士が機関銃を打った際、肩への衝撃を抑える効果が期待されるとう事で考案されました。
▪両脇のポケットを「スラッシュ・ポケット」に変更
▪「Dリング」の登場
→ 共地のベルトは変わっていませんが、この時期から「Dリング」と呼ばれる真鍮製のホルダーが追加されていきます。(上の70年代製アクアスキュータムのベルト右下部分をご覧いただくとわかります。」
ここには、戦闘中兵士が手榴弾や水筒を吊るしていたと言われてます。
形がアルファベットの「D」に似ている為「Dリング」と呼ばれるようになったっもので、後ろにも2つ付きます。
▪エポーレットの役割の違い
→両肩に付く共地ストラップの「エポーレット」は健在ですが、その役割が変化しています。
初期型トレンチコートでは、あくまで「憲章を吊るす為のもの」くらいの位置付けだったのに対し、この時期には戦闘中に肩から下げた荷物がずり落ちないようにロックする為のものとなり、一気にミリタリー仕様になっています。
【エポーレットの使用例】
▪生地名に「ギャバジン」の表記
以上のようなモデルチェンジが段階的に加えられ、トレンチコートは「完成」します。
そしてこれは、本当の意味での「完成形」でした。
それは、トレンチコートがその後アメリカに渡り、第2時世界大戦ではアメリカ陸軍が採用していたにも関わらず、その際ほとんど形を変えなかったことを考えても明らかです。
つまり、「それ以上変えようがなかった。」ということを意味します。
いつの時代もそうですが、戦争における「国の威信をかけた開発」というものには、凄まじい執念を感じます
それにより色々な分野で、短期間での目覚ましい発展がもたらされたことも事実でしょう。
服飾分野は、その恩恵を大きく受けて発展しました。
しかし、それが殺し合いを目的として進められてきたことを思うと、何ともやりきれない気持ちになってしまいます…
こういった感情の機微がギュッと凝縮されているのが、冒頭で紹介した、長澤均さんの文章なのです。
再掲しますので、もう一度じっくり読んでみてください。
「ファッションは束の間の夢でありながら、実用品のひとつである。それゆえ、戦争という流行とは無縁の〝殺し合いの場所〟でさえもファッションは進化し続けてきた。」
「戦争は、時として美しく合理的なファッションを生むが、ファッションが戦争を招来したことは一度もない。ただ一言、それは美しくないからだ。」
トレンチコートを題材にすることは、「僕たちが今、どれだけ平和な時代を生きているのか。」を改めて実感する、いい機会になります。
では、ここからはもう少し視野を広げて眺めてみようと思っています。
最初はトレンチコートを「レイン・コートの中のひとつ」として考え、そして最後にもう一度トレンチコートのディテールの話へ戻っていきます。
【7章】レインコートの原点「マッキントッシュ・クロス」
レインコートの歴史はトレンチコートより古く、1823年のある「世界的発明」によって動き出したと言えます。
「マッキントッシュ・クロス」
そう、皆さんもよくご存知の「MACKINTOSH」のコートに使用されている、あのゴム引き防水地です。
それは、生地に特殊なゴムを張り合わせることで完璧な防水性を実現させた、当時としては奇跡的なものでした。
この生地を発明したのは、スコットランド・グラスゴー出身のチャールズ・マッキントッシュという人物です。
【チャールズ・マッキントッシュ】
そしてこれが世界初の防水生地であり、今なおこのゴム引き防水地は「マッキントッシュ(クロス)」と固有名詞で呼ばれているのです。
しかし、誤解されがちなのですが、チャールズ・マッキントッシュはあくまでこのゴム引き防水地を発明した人物なのであって、レンコートを作った人物ではないのです。
この「マッキントッシュ・クロス」にいち早く目をつけ、レインコートを作ろうと思いついたのが、イギリス・マンチェスター出身の、トーマス・ハンコックという人物でした。
これが既製の、完全なるレインコートとしては最初期のものであるとされています。
ここに、その後19世紀後半〜20世紀初頭にかけて次々と登場する、バブアーのオイルドクロスのコートやバーバリー・アクアスキュータムのトレンチコートといった名品の全てに繋がる「原型」が出来上がったと言えます。
【8章】トレンチコートの裏地が「チェック柄」である理由
トレンチコートの謎としては、細かいディテールの様々な話があり、洋服好きの間で話題は尽きないのですが、(両肩のエポーレットやベルトに付属されているDリングはその代表格です。)
その中で、見落とされがちで語られることが少ないディテールが「バック・チェックの謎」。
つまり、「トレンチコートの裏地はなぜチェック柄なのか」という事です。
確かに、現在バーバリーやアクアスキュータムのトレンチコートの裏地には、ほぼ例外なくチェック柄が使われていますし、バブアー のオイルドコートの裏地もそのほとんどがチェック柄です。
これには、先程出てきたT・ハンコックの〝ある想い〟が関係しています。
T・ハンコックは、「マッキントッシュ・クロス」を使って世界最初期のレインコートを生み出した時、タータン・チェックの裏地を貼りました。
では、なぜ彼はそんなことをしたのか?
先程も触れましたが、C・マッキントッシュはスコットランドのグラスゴー出身です。
スコットランドのケルト文化を象徴する「タータン・チェック」を裏地に使うことで、彼は世界的な発明をしたC・マッキントッシュに最大の敬意を払ったのです。
そして、その後追随したバーバリーやアクアスキュータム、バブアーも皆、故C・マッキントッシュへの敬意を忘れなかったからこそ、裏地にタータン・チェックを配したと言われています。
「バーバリー」のトレンチやバルマカーン・コート
「アクアスキュータム」のトレンチやバルマカーン・コート
「バブアー 」のオイルド・コートやハンティングジャケット
これら英国で誕生した名作レインコートの裏地には、こんな素敵な物語が隠されていたのです。
皆さんも、レインコートの裏地にチェック柄を見つけた時は、激動の時代を生きた先人達が残してくれた、美しい物語に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
【おまけ】僕が愛用しているトレンチコート
最後に、僕が愛用しているトレンチコートを紹介しておきます。
1990年代頃のヴィンテージBrooks brothers です。
【Brooks brothers のヴィンテージ トレンチコート】
【参考文献】