ま、それがどーした!?…っていう気分もありつつ(笑)
上皇様 上皇后様には、長い間のご公務お疲れ様でした!
本当にありがとうございました…と心より申し上げますm(__)m
…で、このブログは、その令和第1弾も「甲斐さん」な訳で(笑)
先日オンエアされた萩原健太氏の
「From 1960~昭和グラフィティ」へのコメントから…
って「健太」というお名前は、萩原健一さん演じる「木暮修」が
自分の子供に「高倉健の健と菅原文太の太で健太だ」と付けた名前でしたよね?(笑)
ともあれ…14時55分からの第2部?が、20分ほど過ぎたトコで
「こんにちは!甲斐よしひろです」といきなり声がして
甲斐さんのラジオ番組のオープニングみたいになってましたけど(笑)
「萩原健太くん、お元気でしょうか?お久しぶりです
まあ、あの…ナンか色々テーマがあるらしく
ナンか、さっき聞いたら、気持ちの良いシティポップスをオンエア…
君がそんな風にかける訳ないと思うんで
まあ、色んな…ヒネってかけるんでしょうが…」
…と旧知の間柄ならではのジャブ(笑)に続き
「ま、僕らはですね、僕ら甲斐バンドは…
まあ、日本のロックの創成期が70年代初頭にあって、ね?
えー、その次の…僕ら、そのネクストの世代っていうことなんで…
まあ、そのロックの創成期70年代初頭の後、出て来た僕らは意識的にですね
オリジナル曲のチャートインを狙いに行ったという世代ですね、ハイ
その上で、ロックを形成したり、時代を作って行ったということです
まあ、自分が小学校や中学校の時に聴いてたストーンズやビートルズ
キンクスなどの音楽は、結局いつもチャートの上位にいたんで
それを日本でやるというような…やっぱり狙いでしたね、ハイ
そこは非常に意識的でした
えー、だから、音楽をクリエイトしながら、続々とチャートに送り込んで
誰もやらなかった場所でイベントをやり、ね?
で、どしどしスポーツ新聞や雑誌に書いて貰うと…(笑)
その上でまあ、スタジアムバンド…
ビッグなバンドを目指すというような感じでしたね
えー、ま、音楽的も含め、ライブも含め、生き方も含め
そういうビッグな方に…どんどんなるように目指したということですかね
えー、あの…ニューヨークのエンジニアと組みながら、ね?
ボブ・クリアマウンテン…スプリングスティーンとか
ボウイとか、ストーンズがね(組んだ)
そういうエンジニアと組みながら、3部作作ったりとか
結局…デュラン・デュランをやった
ジェイソン・カーサロとかっていうのも組んでたんで
結局、10年近く…ね?やって行ったという…
で、それを更に、そういうことでアルバムを世界的な水準の音に引き上げたいな
…というような気持ちでやってました、ハイ
そこにまあ、萩原健太もナンか、一緒にスタジオに行ったりとかね
あなたも噛んでましたからね
ま、そういう風に音楽的にも、ライブ的にもね、生き方的にも…
えー、一種のフィールドに…フィールドに向かって行ったということです、ハイ
えー、僕らは、そういう風にどんどん…だから、その部分…
今まで誰もやったことがないような所を目指してましたよね、ええ…
誰も踏み込んだことがない領域に行きたい…というようなことでした、ハイ」
…と【シーズン】をバックに、約3分のコメントが流れたんだけど
特にツアーやアルバムの告知はなかったし
プロモーション的な意味合いはゼロですよね(苦笑)
それより、どういうオファーの仕方というか
「かつての甲斐バンドの活動について」といった
かなりザックリとした質問というか、何を話せと言われて
こういうコメントになったのかなあと…?(笑)
このコメントをお聴きになって萩原さんは…
「えー、甲斐よしひろさん、ありがとうございました
あのー、甲斐バンドというのは、やっぱ、その後の…
今現在の日本のポップミュージックみたいなものを作り上げていく歴史の中で
非常に重要な役割を果たして…曲的にもそうですし、サウンド的にもそうですし…
例えば、ライブの話、してらっしゃいましたけど
日本のロックバンドで初めてNHKホールで公演したのは
甲斐バンドが初めてなんですよね
それから、箱根とか花園ラグビー場とかね
色んな変わったシチュエーションで…
両国国技館なんかでね、ライブやったのも
まあ、かなりの先駆者って言いますかね
その後のポール・マッカートニーよりも早かったっていうね(笑)
そういう意味でね、甲斐バンドがやって来たことって、実に大きいと思うんです
それから、あのー、先ほども言ってた
海外でのトラックダウン
今、わりと海外で色々トラックダウンしたりすることって
わりと普通になって来ましたけれどもね
えー、やっぱり、この甲斐バンドとかオフコースとか…
オフコースは西海岸の方でやってたんですよ
で、甲斐バンドはニューヨークで…っていうね
この両者が切り開いた地っていうのは
非常に大きかったなっていうような感じがしますけども…
えー、そんな訳で、僕が甲斐バンドの中で
今日、この午後に1曲聴きたい曲ってのは、これになります
1982年、昭和57年の曲…もちろんトラックダウンはニューヨークで行われてます
ボブ・クリアマウンテンのミックスで聴いて下さい」
…と【ナイト・ウェイブ】を流しておられましたが
そもそも、萩原さんが初めて甲斐さんにインタビューなさったのが
82年の11月、名古屋で甲斐バンドのライブを初めてご覧になった直後で
そのライブの中でも「来年はツアーをやらない宣言」があったらしく
話題は、ニューヨークでの「虜」制作の手応えと次作のヴィジョン
そして、ツアー休業に関する質問…といった感じ
そのインタビュー記事の中で、萩原さんは…
「甲斐バンドは『教科書のある国』アメリカへと向かった
そして『虜』と3曲入り30cmシングル『ナイト・ウェイブ』が生まれた
僕は甲斐バンドについて、文字通り一夜づけの知識しか持ち合わせていない
それでも、これらの作品に凝縮された
すさまじいまでのパワーを感知することは出来る
特に『ナイト・ウェイブ』
知ったかぶりをする気など毛頭ないが
これほどまでに彼ら自身の感情が生に近い形で結晶した作品はないのではないか?
少々、勇み足ぎみにそう言いきることが出来るくらい
今、僕はこの曲に入れ込んでいる
そこには、平静と躍動、慰めと絶望、勝利と敗北、夢と現実…
そんな魅惑的なパラドクスが見事に歌い込まれているのだから」
…と記されていて、おそらく?萩原さんにとって
【ナイト・ウェイブ】イコール「甲斐バンド」というほど
インパクトのある曲だったんじゃないかと…?
甲斐さんは、その後に別のインタビューで…
「『破れたハートを売り物に』と『ナイト・ウェイブ』
それに『ラブ・マイナス・ゼロ』っていうのは、3部作なのね、実に…
だから、自分の中である種の重要なシーンの一部であるという自覚はある」
…と明かされていて、萩原さんの入れ込み具合は
かなり嬉しい反応でいらしたのかなあと…?
その後、萩原さんをサンストへ、半ばレギュラーのように(笑)お呼びになったり
「一郎と萩原健太と一緒に飲むと、うるさい、うるさい(笑)」とこぼされたり(笑)
かの「ニューヨークBOX」の解説をお願いなさったり…と
長く濃密なおつきあいが続いてらっしゃいますもんね(笑)