いま私の知り合いの間で、堀内大学の詩をめぐって、いろいろな意見が飛び交っています。
「雪中越冬」という詩です。
堀内大学は、終戦後間もなく疎開先の妙高から高田に移り暮らしました。その頃こんな詩を書いているのです。
越後の冬は長いから、
半年続く冬だから
高田の雪は深いから
人の情けと似ないから
高田の雪は深く、高田の人の人情はそれと似ない、つまり人情が浅薄だと謳っています。
高田の人間としては、人情が浅いと言われるのが納得いかないわけです。
しかし高田の堀端に暮らすことになった堀内大学は、当初高田暮らしが嫌であったらしい。
それは、当時のこんな詩からも覗えます。
塘亭
家の前は城あとの濠ばた
越してきたのが北国の十一月
はや初冬
敗荷と枯れ葦の根かたに
寒むざむ白う水が光って
朝晩は鴨の声がして
新居とは名ばかりの
朽ち果てたふる家
窓の硝子はめしひ戸は傾いて
すきもる風に寒夜の夢は成りがたい
これはたうてい
老いの身の旅路の果てに行きついた
終ひの棲み家のみなみのしろまち
(『あまい囁き』昭和二十二年)
慣れぬ地に移り、友人もなく、しかも初冬のわびしいひっこし。孤独を感じるのも無理はありません。「雪中越冬」の詩も、高田移住直後の孤独の中で書いたものと思われる。だから、「人の情け」が感じられなかったということなのではないでしょうか。
しかし昭和25年、高田を引きあげるにあたり大学が作った詩は、高田への愛着に満ちています。高田公園の濠わきにある詩碑にあります。
高田に残す
ひかるゝおもひうしろがみ
のこるこヽろの なぞ無けん
すめば都と いふさへや
高田よさらばさきくあれ
おほりのはすよ 清う咲け
雪とこしへに白妙に
これは、濱谷浩、齋藤三郎さんら後の高田文化協会のメンバーとなった方々や市井の多くの人々の知己を得、高田の人情に充分触れた結果生まれた詩だと考えられます。
大学は高田にいやな思いを抱いて去ったのではなく、むしろ想いを残して去って行ったと考えていいのではないでしょうか。
高田に、また上越にゆかりのある文人や芸術家が結構います。かれらがこの地でどう生きて、どういう想いを抱いていたか、興味がわきます。そこに、上越の心性の結晶があるように思えるからです。