昨日が「ハッピーデー」でしたね。

  今日は家で静かに過ごしてますよ。

 

 

 

 

 

     (たいじちょう)

和歌山県太地町

 

豪雨の降りそそぐ音と思ったのは、沖合から吹き寄せてくる、石割り風のすさまじい物音であった

      津本 陽「過ぎてきた日々」(2002年)

 

1972年秋、無名の作家だった津本陽さんは和歌山県南部の太地町へ取材に出かけた。町中の宿に泊まった翌朝、晴天なのに豪雨と錯覚するほどの轟音を立てる沖合からの強風に度肝を抜かれた。海を見ると<岩を噛む波濤が白泡を空中に噴きあげ>ている。生まれ育った県北部の和歌山市とは違う。熊野灘の荒々しい海を体で感じた。

 

 

 

 

 

鯨を見張る山見の一つが置かれていた梶取崎(かんどきざき)から燈明崎を望む。  熊野灘に朝日が昇ってきた。

 

 

太地は江戸時代初めの1606年から組織的な古代捕鯨を営んで栄えた町。

黒潮の流れる熊野灘沖は古くからクジラの通るルート。

 

古代捕鯨の祖、和田頼元やザトウクジラの漁法を考案した中興の祖、太地角右衛門の墓のある順心寺。事故死したらしい銛(もり)打ち見習いの墓や、クジラの霊を弔う供養碑……細かい路地に家々がひしめく町は、「一頭で七郷が潤う」と言われ、井原西鶴が小説「日本永代蔵」に栄華を記した捕鯨の歴史をあちこちに刻む。

 

「銛打ちが乗り込んだ勢子(せこ)でクジラを網に追い込み、銛を放つ。仕留めた後は、対になった持双(もっそう)で挟んで浜に牽引(けんいん)していく。

 

津本さんは和歌山市に戻った後、初長編「深重(じんじゅう)の海」を書き上げ直木賞受賞。

鯨捕りの漁民100人以上が犠牲となり古式捕鯨の時代を終わらせた明治11年(1878年)の海難事故「背美(せみ)流れ」を題材に、愛する家族や恋人のため命がけで海と闘う人々の情念を描く。その原点が、猛烈な風の体験だった。

 

 

 

クジラの放たれた森浦湾の奥を、シーカヤックで巡る観光客

 

湾内のいけすで飼育されているクジラやイルカのうち数頭を毎日、網で仕切られた湾の奥に放っている。

 

 

 

 

くじらの博物館では、近海に住む9種類の小型の鯨類(イルカを含む)約35頭が飼育されている。

  真っ黒で細長いオキゴンドウ、

  体に花のような白い傷があるハナゴンドウ、

  大きな頭のコビレゴンドウ、等々

 

博物館本館では、270年以上続いた古式捕鯨が明治初めに終わった後も、子孫が近代的な捕鯨を導入したり、渡米して漁業をしたりと、世界の海を行き来しながら活躍してきたことが分かる。

 

 

 

 

 

 

   (2024・6・30 よみほっと 旅を旅して から)