ハンゲショウ(半夏生)

 

 

想いが上手く言い表せなかったのですが、みごとな行書で

書き上げて下さいました。(*- -)(*_ _)

 

 

 

 

友人・フーチャン💛 から

 

 

 

 

陸橋上から

 

 

美容室から

第一子ベィビー誕生から6か月…可愛い~お写真を見せて頂きました。ムチムチピチピチニコニコのお写真に癒しをたくさ~ん頂戴しました~。飛び出すハートキューン怒りキューン ラッキ~~~飛び出すハート

 

 

社会との接点がありますと、嬉しい癒しもいただけますね。

彼女が休業中、代理で「カット&染め」をして下さった女性    

「沢山見守りする方々がいらっしゃいますね!」

 

そうなんです、彼女のお子お二人看板持ち看板持ちも然り、近所のお子看板持ち看板持ちも然り、何よりも「ひ孫」看板持ちうさぎのぬいぐるみが一番ですが…👍

 

 

 

 

三重県 伊賀市

 

自慢の健脚は、衰えていた。体のあちうこちが、不快だった。50代の悲哀を感じながら、それでも俳人;松尾芭蕉は旅に出たかった。

1694年5月11日、芭蕉は人生最後となる旅に向かう。荷物には「おくのほそ道」を1冊収めた。

 

<暑き日を海にいれたり最上川>

 

壮年の日の東北で、なぜ自分はあれほど力強い句を詠めたのか。旅に身を置けば、今の自分にふさわしい句が生まれると感じたのだろうか。名古屋伊勢長島を経て故郷の伊賀に入る。

老いは、病や死など重いものを連れてくる。俳諧だけは「軽み」で詠みたいと思うようになっていた。だが、古里の人々は歓待してもその境地は分からない。朝焼けばかりが、目に染みる。

 

盆地の伊賀は、小京都の風情が漂う。江戸時代、築城の名手と言われた大名、藤堂高虎が城郭を手掛けた。

「戦災に遭わなかったので碁盤の目のような町並みが残っている。昔の絵図と、今の町の様子が重なる」

 

 

 

  朝焼けに染まる伊賀盆地に、赤紫色の雲がたなびく

         滋賀県甲賀市から

 

 

 

数え年19歳で藤堂新七郎の家に召し抱えられた。俳諧に触れ

この道で世に立つため29歳頃、江戸へ下るまでをこの伊賀で過ごした。

伊賀京都、大坂、津方面に出られる交通の要衝。この特性が古きに学び、新しい文化を取り入れる芭蕉のような新進の気風を持つ人物を生んだ。

古池や蛙(かわず)飛こむ水のおと。あれは挑戦の句や。自分が蛙になり、凝り固まった世界にバーンと飛び込んで広げたるでと。芭蕉さんはアバンギャルドや」

 

静けさをたたえた芭蕉翁生家、蓑虫菴、俳聖殿……。

旅に病(やん)で夢は枯野をかけ廻(めぐ)る>

伊賀を出た芭蕉は10月12日、大坂で臨終を迎える。

 

 

       ☆※☆※☆※☆※☆※☆※☆

 

          忍びの里:伊賀

 

 

伊賀流忍者博物館の忍術実演ショー 

忍者は和を重んじるため耐え忍び、時に戦う

 

木の杖が、一撃必殺の武器に変わる。思わぬところに潜ませた手裏剣が空を舞う。「忍者は本来、戦わない。Never Fight.自分の身が危険なときだけ戦うのです」

 

山や谷が多く1人の領主では治めにくい複雑な地形だったことから、この地では自主独立の気風を持つ忍者の文化が生まれた。情報収集が主な仕事だといわれる。

 

戦国時代の天正伊賀の乱では、天下布武を掲げる織田信長と全面対決し、背筋の奥から震え上がらせた。上忍(じょうにん)の出自とされる服部半蔵は、その特異な技量が認められ、徳川家に長く仕えた。

 

 

 

博物館内の忍者屋敷では隠し階段、仕掛け戸などのからくり…

古い城下町の面影の中に残る「上野忍町」の地名。

街中心部にある伊賀鉄道の駅に書かれた「忍者市駅」名。

 

歴史のある町は、伝統工芸の技術も息づく。武具から発展し、明治以降帯締などに使われてきた伊賀組紐。「作業は正座。根気もいる『忍』の一字」

 

 

 

 

 

 

  (2024・6・23 よみほっと 旅を旅して から)

 

 

友人・フーチャン💛 から

 

 

みなさま 熱中症にお気をつけください‼

 

今日の午後は椅子体操です。頑張ります‼

 

 

 

千葉公園;満開の大賀ハス

 

 

 

 

 

 

 

友人・千代子さん  から