友人と会う機会を作らないままに、彼女との交流は途絶えてしまいました。💧 私の不徳の致すところで、時々思い出しては 反省しきりなのです。〇ちゃん ごめんね!(´;ω;`)
〇ちゃんのご姉妹の連絡先もわかりません。(;´д`)
富山県南砺(なんと)市
城端(じょうはな)は機(はた)の声の町なり。寺々は本堂の扉を開き、聴聞の男女傘を連ね
柳田國男「木曾より五箇山へ」(1909年)
明治42年(1909年)6月5日。雨の中、山深い白川郷(岐阜県)を離れ、鉄道駅のある城端(富山県南砺市)を経由して金沢市に向かった民俗学の祖、柳田國男。
浄土真宗の信仰があつく絹織物で栄えた城端の町の情景を、機械の音や聴聞の人々の傘で捉えて50字余りに凝縮した。
「越中の小京都と言われる町の雰囲気をほうふつとさせ、城端人には重要な文章。この言葉を書いた看板が城端駅の改修で撤去されたので、有志で募金を呼びかけ、6年前、城端別院善徳寺に文学碑を建てた」
城端は砺波平野の南端、山の世界との境にある台地上に、善徳寺を中心とした寺内町として発展した。
加賀藩の領地だった江戸時代に絹織物の生産が盛んになった。「加賀絹として京都や江戸にも販売された。5月に行われる曳山祭の庵(いおり)屋台や端唄に京都と江戸の文化が融合して残されている」
絹織物は機械化され1975年頃にピークを迎えたが、需要の減少で大半が別の織物に転業した。
絹織物の生産で栄えた城端。今町通りに豪商の土蔵が残る。
町中には格子戸の町家や古い織物工場の跡が並ぶ。小路の坂を下りて、城端で唯一、絹織物を続ける松井機業に行きつく。明治10年(1877年)の創業以来、太さが不均一な玉糸で織り、襖などに使われる「しけ絹」を織り続けてきた。
真宗王国と言われる北陸には、浄土真宗の信仰が根付いている。版画家の棟方志功(1903~75年)は青森市出身だが、東京からの疎開をきっかけに城端の隣、福光町(現南砺市)に45年から51年まで暮らし、「南無阿弥陀仏」という「大きないただきものを致しました」と自伝「板極道(ばんごくどう)」に記した。それは自力でかけずりまわってきた足を、仏意に包まれた他力の世界へ向けることだとも。
南砺市立福光美術館、春季展示(7月7日まで)
福光を懐かしんだ肉筆画「四季福光風景」
版画の代表作「二菩薩釈迦十大弟子」
記念館「愛染苑(あいぜんえん)」
棟方が46年から暮らした住居「鯉雨画斎(りうがさい)」
木造平屋の質素な家。お手洗いの壁や天井は、天女や観音様の絵で埋め尽くされている。
山間部の五箇山地区
高い山々に囲まれた相倉(あいのくら)合掌造り集落
かつて城端の絹織物に使われた生糸が生産されていた。
茅葺き屋根の民宿兼展示館「勇助」
浄土真宗で冬の間、家々に僧侶を呼んで読経や説教を聞いた報恩講の説明がある。
仏間の扉の柔らかな絹地の表具はしけ絹。仏間の大きな仏壇が信仰のあつさを物語っていた。
(2024・5・19 旅を旅してから)
本日午後は、昨日義息子&娘が車で探してくれた
「Yワイひろば」に行く予定です。わ~い (∀`*ゞ)
月に一回のスマホ教室です。先生、ボランティアさん、担当者さんもいらっしゃるこじんまりとした教室です。教わることと、お話しできる事、一石二鳥の楽しい時間でした。一人でいますと、出かけない日は口を開けて話すことがありませんから、こういう機会に参加できるのは最高に幸せなことなんですよ。一駅 電車に乗り、少し歩きます。昨日車で下見したにもかかわらず、方向音痴の私は間違えた道を進んでしまいました。あぁ情けない情けない!
人様に聞いたりして自己判断が極端に鈍ってます。
またチコちゃんに叱られそうです。
次回からはもう大丈夫!!👍