ニセアカシアが良い香りを放つようです

於;神流川キャンプ場

 

 

 

    神秘の宇宙…2021年の記事を転記してます

 

 

 

 

 

就職し関西赴任、 オーストラリア短期逗留&帰国、   

大学入学、曾孫出産、祖母旅行付き添い、 次から次へ

孫から癒しを貰ってます。  私の生き甲斐ともなって

ますよ。

 

皆様それぞれ生き甲斐は別々ですからね・・・

 

 

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福井県越前市 武生(たけふ)

 

春なれど白嶺(しらね)の深雪(みゆき)いや積り

   解(と)くべきほどのいつとなきかな

            紫式部「紫式部集」

越前守となった父、藤原為時に従って越前国府があった武生に来た紫式部のもとへ、都の藤原宣孝(のぶたか)から求婚の書状が届いた。「春に氷が解けるように、あなたも心も閉ざしていないで私に打ち明けるべきだと、ぜひ知らせてあげたい」

彼女が返したのが冒頭の歌で、内容はつれない。

春にはなりましたが、こちらの白山の雪はいよいよ積もり、解けるのはいつのことか。春を「知らね」と掛けて、そんなこと知らないと畳み掛けている。

 

武生からも見える白嶺(加賀の白山)は古来、有名な歌枕で、標高2702㍍。4月になっても白い雪が残っている。

 

 

 

 

父、為時が執務した政庁、国衙(こくが)があったのは現在の本興寺付近と考えられ、昨年度から5年がかりの発掘調査が進められている。

 

境内には紫式部の娘、賢子(けんし)が母をしのんで植えたと

伝わる紅梅がある。現在の木は4代目。

 

延喜式によれば都から越前までの行程は4日。紫ゆかりの館(紫式部と国府資料館)には紫式部と父・為時の「下向行列和紙人形」が展示されている。

「48人の行列で紫式部は金の金具で装飾された黒い網代輿(あじろごし)の中にいる」。

 

舘の隣が紫式部公園。庭園史の専門家が作庭した寝殿造りの庭園で、池のほとりの釣殿(つりどの)が再現されている。

 

父を武生に残して紫式部は先に都に帰り、宣孝と結婚。26歳前後。当時としてはかなり遅い。

 

 

 

  「源氏物語」の「常夏」の巻に光源氏が釣殿で

      納涼の宴を開く場面がある。

 

 

 

 

紙すきの技術を伝えた川上御前をまつる岡太神社・大瀧神社

      社殿の屋根は「日本一複雑」

 

 

紫式部の父、藤原為時は越前の行財政、司法、軍事、宗教を司った。平安時代中期、公文書は木簡から紙に移っていた。

越前国府では1500年の歴史を持つ越前和紙を使ったに違いない。

製紙法が公式ルートで日本に伝わる610年より早く、今の越前市五箇地区の岡太(おかもと)川上流に現れた女神(川上御前)が紙漉き技術を教えたとされる。

 

 

 

武生から石川県内の白山が   越前和紙の里のある卯立の

遠望できる。         工芸館で、昔ながらの紙漉

               き工程が見られる。

 

岡太川の女神から紙漉き技術を教わったのは男大迹王(おおどのおおきみ)だという言い伝えもある。後の継体天皇。

 

継体大王照日の前の像」がある味真野(あじまの)地区。

万葉集に味真野の歌が63首あり、それにちなんで整備された公園が万葉の里味真苑。

「味真野には継体の旧跡が十数か所ある」。

57歳になると継体は天皇位を継ぐため大和へ旅立つ。

 

結婚のため越前を去った紫式部だが、早くに夫を亡くし、中宮彰子(しょうし)に仕えて「源氏物語」の執筆を続ける。その際、彰子の父・藤原道長から紙が届くというエピソードが「紫式部日記」に出てくる。

当時、紙は大変高価な品だった。道長は光源氏のモデルの一人といわれる。

 

 

 

 

 

 

 

     (2024・4・28 旅を旅して から)

 

 

 明日から2泊3日で、天橋立方面に行ってまいります。

 この前の孫とは別の孫2人も参加しますのよ。

 事故の無きように楽しんできたいと思います。ハートのバルーン飛び出すハート