故・宮城まり子を拝顔したのは中学2年の時…

 

 

 

一週間外出しませんでしたから、脚が萎えてる感が否めません。今日は近場を歩いてきましょう。走る人 雨☂だゎ…諦めましょう。私へ…「しっかりせぃよ!」

 

 

 

 

旅を旅して

 

三重県鈴鹿市

 

その数々の悲劇をちりばめた異国日誌の

大きな展開は、ここ白子浦を起点とし、

終点としている。

 井上靖 白子港緑地「大黒屋光太夫・讃」碑文(1990年)

 

 

 

 

 

白子港緑地には、大黒屋光太夫の苦難の10年を象徴するモニュメント「刻の軌跡」が立つ。石を10枚積み重ねている。

 

隣の文学碑は歴史小説「おろしや国酔夢譚(すいむたん)」(1968年)で主人公、光太夫の名を広めた作家・井上靖

よる詩を刻む。

 

 

白子の隣、若松出身の大黒屋光太夫は、約240年前、三重県鈴鹿市にある白子港を出て漂流、アリューシャン列島に漂着しロシアの都まで旅をした。

 

光太夫は伊勢(三重)や尾張(愛知)の木綿を江戸へ送る港町、白子の神昌丸の船頭だった。

光太夫直筆のロシア文学肖像画などを保管する記念館。

 

「井上氏の執筆時は、光太夫は伊勢に帰れなかったというのが常識だった。でも86年に若松で帰郷を示す古文書が見つかり、90年に当時の市長が碑文を依頼する際、その資料を見せた。だから<終点>となったのでは」。井上は碑文の詩を書き上げた後、91年に逝去。翌年の文学碑の除幕式は出られなかった。

 

神昌丸に乗り組んだ17人中12人が若松出身。ロシアの国情を伝えた光太夫を始め、地元には銅像や記念碑が多い。光太夫と帰国した水主、磯吉の菩提寺、心海寺には帰郷時の口述書が伝わり、その文書と出合った吉村昭が書いた小説「大黒屋光太夫」(2003年)では、光太夫は帰郷を果たしている。

 

若松東墓地には、遭難の2年後に建てられた神昌丸乗組員の供養碑がある。遭難から20年後に里帰りを果たした光太夫も、自分の供養碑を見ただろう。「帰郷は船員の遺族や船主に詫びて自分の気持ちを整理する、『心の終点』でもあったのでは」。

 

 

 

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鈴鹿市の白子が江戸時代に港町として栄えたのは、御三家の一つ紀州藩(和歌山県)の飛び地だったことが大きい。

紀州藩の保護を受け全国に広がったのが、伊勢型紙

 

 

「江戸時代、奢侈(しゃし)禁止令が出ると、遠くからは目立たず近寄ると柄が分かる小紋の技術が発展。型紙は友禅や浴衣の染織にも用いられた」

 

武士は藩によって異なる小紋の裃(かみしも)を着用、庶民も小紋を着るようになり「『江戸の粋』を担い、欧州のアールヌーボーにも影響を与えた」。紀州藩の極鮫(ごくさめ)という小紋の場合、1㌢角に100の点を彫り出す繊細さ。

 

      

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鈴鹿サーキット

 

 

「自動車産業の発展を目指して誕生したのは1962年。まだ、日本には高速道路がない時代だった」。 

 

 

 

 

(2024・3・17  よみほっと から)