ニューヨーク:セントラルパーク 内

 

 

     1年前の外食写真を載せてます左下矢印左下矢印左下矢印

 

 

 

         ニューヨーク から

 

 

 

 

    101階のピークというレストランへ

 

 

 

 


 

 

高所恐怖症のワタシメはこの義娘(こ)の真似は

とても出来ません。(;^_^A

 

ハドソン・ヤーズのエッジを眺める

 

 

この2枚は義娘撮影

 

ハドソン川

 

 

 

 

因みに2月25日は亡夫の誕生日でした。

 

 

さてさて

本日の新聞切り抜き記事から

 

EEZに洋上風力

脱炭素加速 設置促す

政府は洋上風力発電所の設置を認める海域を現行の領海内から排他的経済水域(EEZ)に拡大する。洋上風力を「再生可能エネルギーの切り札」と位置付けており、導入を後押しし、脱炭素化を推進したい考え。

 

洋上風力は、現行の再生可能エネルギー海域利用法で、国が

「領海及び内水」のうち、導入に適した海域を「促進区域」に指定し、公募で選ばれた事業者に最長30年間の利用を認めると定められている。

 

政府は、2040年までに3000万~4500万㌗に発電容量を増やす目標を掲げており、約10倍の面積に当たるEEZまで設置可能な海域を広げる必要があると判断した。

 

 

 

EEZでは、

①国が「募集区域」を指定し、設置を希望する事業者に仮の許可を出す。

②事業者は漁業者ら地元関係者との協議会を作り、合意が得られれば正式に許可する。 という2段階方式とする方針。

 

これまで領海での洋上風力発電は、風車の支柱を海底に固定する「着床式」が多く活用されてきたが、

水深が深いEEZでは、海底に固定せず、海面に浮かべる「浮体式」が主に採用される見通し。

 

                 (2024・2・24)

 

 

 

         セントラルパーク

 

 

 

     能登をたどる 歴史1

   上時国家住宅(かみときくにけ 輪島市)

 

 

入母屋造の豪壮な「上時国家住宅」(重要要文化財)は無残にも倒壊して屋根が地面に着いていた。

 

ハートのバルーン平家が滅びた1185年の壇ノ浦の戦いの後、能登へと配流された平時忠の子孫が「時国家」として続いたとされる。

時忠は「平家にあらずんば人にあらず」との言葉を残したと伝わり、89年に生涯を閉じたが、時国家は中世以降、能登地方で勢力を広げていった。

 

江戸時代には時国家が、上時国家と下時国家に分立すると、上時国家は1831年頃、現在地に移り、住宅の主な建物は57年頃までに完成した。江戸幕府の直轄地である天領の大庄屋として存在感を示した。

 

1980~90年代に同家伝来の「上時国家文書」などを調査した歴史学者の網野善彦(1928~2004年)は、著書『続・日本の歴史をよみなおす』に記している。

<廻船による交易を活発に行っていますし、製塩、製炭、山林の経営にもたずさわり、鉱山にもかかわりをもち、蔵元として金融業も営んでいる家>。

 

農業以外の生業も手広く経営した<多角的起業家>と再評価。江戸時代までの奥能登を、日本海交易が盛んな<日本有数の富裕な地域>と捉え直した。

 

ハートのバルーン能登の人々は古来、海の恩恵を享受してきた。

縄文時代の真脇遺跡(能登町)では、食料としたとみられるイルカの骨が大量に出土している。古代には、大陸と相対する表玄関の役割を果たした。能登には大陸の渤海国(ぼっかいこく)の使いが着き、毛皮や暦などをもたらした。

 

<珠洲の海に朝開きして漕ぎ来れば

       長浜の浦に月照りにけり>   大伴家持

8世紀の万葉歌人の詠んだ歌。海路を旅した様子が伺える。

 

半島は中世以降、日本海航路の要衝として発展する。この地で焼かれた陶器、珠洲焼が、海運を利用して全国に普及。

近世に入ると、北前船の船主が大きな利益を上げ、輪島市の黒島地区に広壮な屋敷を構えた。

 

上時国家も4隻の巨大な北前船を所有していた。

 

建物からの文化財搬出 課題。

 

      (2024・2・20 讀賣新聞から)

 

     

 

 


2024・2・25 

讀賣新聞 編集手帳から

 

作家の井上靖は、「ふるさと」に結びつく言葉を愛した。

古里、故郷、故園(こえん)、郷関きょうかん)とりわけ、

論語の「父母国(ちちははのくに)という呼び方を好んだ。

 

どの国の言葉であっても、ふるさとの表現は美しいものをいっぱいつけていると、詩文集に記している(『遠征路』集英社)。ふるさとは、代々育まれてきた心のよりどころと言っていいだろう。

砲弾にうがたれたウクライナの公園で、家族の思い出が不幸に上書きされたと嘆く女性の涙に胸を締めつけられる。

 

ロシアが侵略を始めて2年たった。数えきれない命と暮らしを犠牲にしながら、戦況は膠着している。打開の予兆すらない。

 

現地から伝えられるニュースに、歳月の非情を突きつけられる。飛来するミサイルと無人機の音を聞き分けられるようになったと言う人がいる。昼夜を問わず空襲サイレンは鳴り、それでも仕事や食事の手を止めない人がいる。恐怖に慣れつつあるのか、諦念か。戦渦が生活を黒く塗りつぶし、新しい日常になっていくようであまりにも悲しい。

 

人々の心のよりどころが、砲弾によって瞬時に失われ、時間をかけて奪われてもいく。残酷が極まる。