かわしま健氏のブログ お借りしました。

 

 

   中の一文から 右上矢印右上矢印右上矢印

 

  「本を読み、昔の賢人を師友とすることを

  『読書尚友(しょうゆう)』といいます」

 

 

 

      

福島県 会津若松市

 

当時石垣ハ依然トシテ存ス

        新島襄「遊奥記事」(1882年)

 

 

 

 鶴ヶ城の本丸から廊下橋を渡り、二の丸方面から望むと、

 高い石垣越しに天守閣が見えた。

 

 

幕末の戊辰戦争で、将軍家への忠誠を貫く会津藩は前藩主の松平容保(かたもり)以下、藩士とその家族が1か月にわたる籠城戦を繰り広げた。

藩の砲術師範だった山本権八の娘・八重は弟の形見の着物で男装し、7連発のスペンサー銃を担いで城に入った。

女たちと飯炊きや負傷者の手当てを行い、男たちに交じって新政府軍と戦った。

 

籠城を終えた時の八重の歌

<明日の夜は何国(いずこ)の誰かながむらん

         なれし御城に残す月かげ> 山本八重

 

敗れた藩士たちは城下を追われ、苦難の年月を送ることになる。八重は兄・覚馬がいた京都に家族と移住し、新島襄と出会って結婚。6年後、夫と初めて故郷を訪れた。

は戦いをしのび、「石垣は今でも変わらず残っている」と旅の記録「遊奥記事」に記した。

 

「武家の住まいがあった城の外堀から内側には誰も住まず、手つかずの状態。幕末期に6万~7万いたと思われる人口も半分以下になっていた」(当時の様子)

 

夫婦は外堀に近い旅館に滞在した。老舗の漆器店や窯元、飲食店が連なり、観光客に人気の七日町通りに旅館跡の説明板がある。

 

城の南約6㌔の元激戦地に八重が建てた父の墓を訪れた。「会津藩の戦死者は埋葬を許されず、権八たちも後になって近くの寺に合葬された」。自然石に氏名と戦死の日を刻むだけの墓に胸を突かれた。

 

滞在中、夫の新島襄は自由民権運動の活動家に会ったり、キリスト教の伝道を考えてか、地域の気風や文化に関心を向けたりしている。

 

 

          

           会津城

 

 

 

上 会津藩校 日新館。子弟は10歳で入学。論語の素読から

  天文学まで幅広い教科を学んだ。

  女子は家庭で道徳の本「日新館童子訓」を呼んでいた。

下 鶴ヶ城天守閣から望む会津磐梯山。

  手前右は「白虎隊」の少年たちが自刃した飯盛山

右 大龍寺クリップに立つ山本家の墓標。字は八重の手による。

 

 

会津藩士の子弟は幼少期に10人前後の「(じゅう)という集まりで、虚言や弱い者いじめを戒める「什の掟」を学んだ。

ならぬことはならぬものです」の結語で有名な掟は今も市内の掲示板などで目にする。

 

会津女性 逆境に屈せず、信念を貫いた。

 新島八重 のほか

 大山捨松(すてまつ) 家老職の山川家出身で

          「鹿鳴館の華麗」と呼ばれた。

 若松賤(しず)子  「小公子」を翻訳した。 

              など名を残した人が多い。

 

市内観光は戊辰戦争に関わるものが多い。会津武家屋敷

飯盛山の白虎隊士墓所、自刃の池 など。

 

クリップ大龍寺には礼儀作法の小笠原流の祖・小笠原長時の墓があり、そのため兵火を逃れたとされる。

「新政府軍の野戦病院となり、汚れないように畳を上げて使った」と増子大道住職(74)。

八重は死の前年、実家の菩提寺だったここに先祖の墓石を集め、墓標を建てた。

 

 

 

 

 

 

 

        (2024・2・11 よみほっと から)