ここでは守れない 父の決断

 

東京都の土屋洸子氏(90)は3歳の時、父が農事試験場に赴任するため満州(現中国東北部)の公主嶺に家族と移り住んだ。家族と離れて新京(現長春)の女学校に通っていた時にソ連軍が侵攻したが、翌年、帰国することができた。

 

1945年8月9日未明、12歳だった土屋さんは寄宿舎で寝ていると、「ドドーン」という突然の爆撃音で飛び起きた。

ソ連軍の攻撃だと分かったのは翌日だったが、その日を境に生活が一変した。

同級生らと一緒に運動場に防空壕を堀り、空襲に備えたが、2日後、「ソ連軍が迫っている。すぐに逃げるように」と言われ、汽車に飛び乗った。汽車はソ連軍から遠ざかるようにスピードを上げた。家族が待つ公主嶺の駅で降りるつもりだったが、通り過ぎようとしたため、先輩が「飛び降りよう」と言い、スピードが少し緩んだ時に、「思い切って飛び降りた」。

ホームに転がり落ちたが、何とか家族と合流できた。

 

まもなく、ソ連軍が公主嶺にも侵攻してきた。家の前をソ連兵が行進。近くの寺に一時避難する際には、道端にいる大勢の住民らが手を伸ばして金目の物をはぎとろうとしてきた。

「戦争に負けるってこういうことなんだ」と痛感した。

 

その後、街中の日本人が集められ、監視下での集団生活が始まった。日本人女性への乱暴事件もあったため、母が私の髪の毛を丸坊主にした。

 

冬を越し、46年夏に引き揚げが始まったが、農事試験場再建のために残留を命じられた父は、4姉妹のうち、長女の私とすぐ下の7歳の妹に、「学校へ行った方がいいから、札幌市の祖父母の家に行きなさい」と告げた。

知らない土地に、住所が書かれた紙切れ1枚が頼り。7月21日、約2500人の引き揚げ団に加わった。

 

途中の錦州では、鉄条網で囲まれた馬小屋にとどめられた。

外から、「ライライ(来て)」と中国語で住民から手招きされた。肉まんのようなものを手に、子どもを誘っている様子で、妹が行かないように必死で手を引いた。

日本人の子どもは安い額で売買されていたという。

 

錦州からほど近い葫蘆(ころ)島から軍用船に乗り、40日後の8月30日に札幌市の祖父母の家に辿り着いた。残った家族全員と再会できたのは、翌47年の11月だった。辛い経験だったが、「妹と2人で不安だった」とは決して口に出来なかった。

 

50歳を過ぎた頃、父から、先に2人を帰国させた理由について、「20~30人の残留日本人だけでは、年頃の女の子の安全を守ることはできないから」と聞かされた。

 

    

    (2024・1・20 引き揚げを語る より)