本日午前8時 雲一つない紺碧の空

 

 

桑名は城のあるかなり大きな町で、そこで

昼食をとった

  シーボルト「江戸参府紀行」(1826年3月28日)

 

江戸時代の後期、長崎・出島のオランダ商館付き医師シーボルトは商館長の江戸参府に同行し、見るもの聞くものをつぶさに記録した。行き帰りに昼食をとった東海道の桑名は大きくて、活気があると記す。鐘などの鋳物作りを見物し、川を渡る舟から桑名城を眺めた。

 

 

 

 

桑名の実業家、二代諸戸清六の旧宅を公開した「六華苑」。

桑名市が建物と庭を「六華苑」として保存公開する。

ジョサイア・コンドル設計の洋館(シーボルトの訪問から87年後の大正2年に完成)が、和風住宅(日本人棟梁が前年に立てた)と横一列に並んでいる。ともに国の重要文化財。

 

 

 

桑名は城下町、宿場町であり、米や木材が集積する商業の町、さらに漁業の町でもあった。近世でこれほど要素が重なる町は珍しい。

 

旧東海道は京都から桑名宿に至り、城の西を通って揖斐川に出る。そこから舟で揖斐・長良・木曾の「木曾三川(さんせん)」が注ぐ伊勢湾を横切り、次の宮宿(名古屋市熱田区)に向かう海路の「七里の渡し」か、川を遡って陸を遠回りする「三里の渡し」を選んだ。シーボルトは往還とも陸路を通っている。

 

かつて旅人で賑わった「七里の渡跡」には「伊勢国一の鳥居」が立つ。ここは伊勢神宮参拝に向かう玄関口でもあった。

 

 

 

桑名藩の初代藩主・本多忠勝は徳川家康を支えた「徳川四天王」の一人。本格的な城を築き「慶長の町割(まちわり)」を行って城下町を整備した。

 

戦時中の空襲、伊勢湾台風と、町は何度も災難に遭った。1667年時の藩主が桑名宗社春日神社)に建てた青銅の大鳥居は桑名の鋳物の歴史を象徴する存在だが、倒壊と修復を重ねている。

 

 

 

桑名城の城壁。荒々しい石組み。   本多忠勝の銅像。

 

 

揖斐川の畔に桑名城の蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)(「七里の渡し」を出入りする舟を監視した)が復元されている。

 

桑名駅から川に歩く途中、「八間通り」に面した海蔵寺境内に「丸に十字紋」の家紋入りの旗が並び、「薩摩義士墓所」があった。

 

江戸中期の1753年、薩摩藩は幕府から川を分流する難工事(宝暦治水)を命じられ、多くの自刃を含む約80人の犠牲者を出して55年に賛成させた。900人余りの藩士らを率い、工事を指揮した家老の平田靱負(ゆきえ)は多大な借財と犠牲の責任を取り自決した。

墓所には平田の供養塔と、犠牲者のうち23人の墓石が並ぶ。

平田の命日に法要を行い、270回忌の今年は、10年に1度、鹿児島まで供養に出向く年に当たる。

 

 

 

 

 

 

 

     (2023・1・14 旅を旅してから)