今年1番がんばったことは?

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師走に入るとソワソワし始めたのは過去の事。今は健康寿命で生活できることが一番の希望であり、実行出来てることを有難く思ってるという昨今です。( ´∀` )「御用納め」という言葉は夫が現役のころの懐かしい響きですね。
子や孫たちも皆それぞれに、多忙な昨日今日を過ごすのでしょうか。さぁ私もせめて恒例の正月飾り一式を出すと致しましょう。
 
大晦日、娘時代には、母に言われてきれいに洗った衣類一式を枕元に置いて休みましたのよ。継母は3日分のお節をたっぷりと作り、部屋の隅から隅まで掃き清め、「若水を汲んでおくのよ」と朝一番のお水を顔洗いに使ったように思います。おぼろげな記憶ですが。新年は神聖なものでしたね。
 
元旦には父は床の間を背に着物姿で座ります。床の間にはお三方に鏡餅を飾ってます。お屠蘇を回し飲み致します。
元日は一番上の杯(さかずき)で、2日は二番目の杯で、3日は三番目の一番大きい杯で頂くのですよ。その際に「おめでとうございます」と言います。何度も言うことになりますね。
漆塗りのお重箱(お重(じゅう)といってました)詰めたお節料理をお正月に使うお皿に取って頂きます。
 
子育て時代はそれを実行してたのですが、息子、娘が成人になった頃からでしょうか…本人たちの意思が現代風になり、簡素化されていきました。
 
ですが我が家に集う時には今でもお屠蘇の回し飲みは継承されてますのよ。
回し飲みと言っても、杯を回すことを言って、お屠蘇は個々に注ぎます。年下の者からそのすぐ上の者に注ぐのです。
 
書きながら、父母との正月の懐かしく穏やかな情景を思い出し、涙が出てきます。
時には継母と大喧嘩をし、辛い気持ちをお友達に吐露した懐かしい少女時代…父はいつも私をかばってくれました。それがまた父母の喧嘩の元になったり・・・・
今、両親には感謝の気持ちでいっぱいになりますゎ。
 
 
 
 
奄美大島(鹿児島県)
 
奄美にいわば本土的なものと沖縄的なものの混交の状態を与えている
    島尾敏雄「私の中の琉球弧」
    (1992年刊「新編・琉球弧の視点から」)
 
島の北にあるあやまる岬に立つと深いブルーの海がどこまでも広がり、空と溶け合う。その先には日本列島。一方、島の南西には沖縄、先島諸島が連なり台湾に至る。
 
作家の島尾敏雄は、大陸からの影響で語られがちな日本を「ヤポネシア」と命名して太平洋に開かれた海洋国家ととらえ、その性格が顕著に表れているのが、奄美から先島に至る「琉球弧」と位置付ける論考を展開。独自の文化や風物を様々な随筆で活写した。
 
 
 あやまる岬の朝焼け。静かな水面に鮮やかな雲が映った
 
 
 
戦時中、島尾は奄美大島の南西に浮かぶ加計呂麻島(かけろまとう)に特攻艇隊長として赴任し、出撃しないまま終戦を迎えた。この時に出会ったミホと結婚するが、東京生活で彼女が心を病み、療養のため1955年に奄美大島に移り住み、鹿児島県立図書館奄美分館長の職を得た。現・奄美図書館には原稿や遺品などを展示する記念室が設けられ、近くには島尾が暮らした官舎が残されている。
 
島尾は自ら先頭に立ち奄美の史料の取集に当たる一方、郷土研究会や読書会を発足させ今も続いている。島の文化振興に多大な役割を果たした。
 
空港近くの展示施設「奄美の郷」では
奄美各島の情報に加え、海や森の様子、伝統行事や芸能、道具箱、珊瑚の石垣に囲まれた茅葺の古民家等が展示されている。
 
   世界自然遺産に含まれる「金作原原生林」
   のヒカゲヘゴ群生地
 
 
奄美の郷で展示・民家  大島紬村で実演されている泥染め
 
ハートロック
昼間でも日の光が届かぬようなうっそうとした神秘的な原生林を抜けると白砂のビーチが広がる。波打ち際に綺麗なハート形にくりぬかれた岩に透明な水が満ち、陽光にきらめく。
 
大島紬
大島紬村ではその製造工程を見学できる。美しい黒色に加え
はっ水効果もある泥田の中での染色、最終的なデザインに沿って一本一本の糸に施す細かい彩色、糸をずらさない正確な手織り・・・。
 
 
 
 
 
 
     (2023・12・24 旅を旅して から)