オホーツク海を背に建つ間宮林蔵
師;伊能忠敬の事業を引き継ぎ、
北海道の地図作成にも多大な貢献をした。
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読売新聞 よみほっとから
万博記念公園
(大阪府吹田市)
大阪もえろう変りましたさかい……とくに
例の万博からこっち
江國滋「阿呆旅行」(1973年)
大阪さがし、 をテーマに据えた随筆家、江國滋の旅は、旧知の日本画家、中村貞似(ていい)との宴席に始まる。
町人文化の象徴たる町、船場に育った画伯が曰く「ほんまの大阪らしいとこ、もう少(すけ)のなりましたわ」。時は1971年、大阪万博の翌年のことであった。
ガラスは破れ放題、床にはちぎれたコード類や錆びた金具が散乱して、陰鬱な雰囲気が充満している。---と、万博跡地の惨状を、江國はつづっている。
「瓦礫(がれき)が山済みの荒れ地を30年で熟成した森に再生すべしと。無茶な依頼でした」。
造園家として記念公園の設計に加わった吉村元男氏(86)は笑う。中核を成す自然文化園の広さは約99㌶、明治神宮の森をも上回り、100年、200年を要する規模だった。
場所によって植生の密度や樹種を変え、水路を細やかに巡らせる。師や仲間と苦心惨憺(さんたん)、構想を練った。
255種60万本の樹木は当初幾らかが枯死したものの、緻密な計画が功を奏したのか、しっかりと根付き、今、深遠な緑を形成する。「都市、大阪には掛け替えのないレガシーになった」。
梅林、茶つみの里、あじさいの森、もみじの滝……。多彩なエリアを結ぶ散策路を歩くと、あちこちでせせらぎが聞こえる。「ポルトガル館 3222㎡」などパビリオンの跡地には
碑が据えてあり、様変わりした眺めに時の流れを思う。
公園のシンボル 岡本太郎による太陽の塔。腹部の「太陽の顔」には特にこだわりがあり、十数種の模型を製作した。
国立民族学博物館
万博の折に世界各地で集めた品を核の一つに創設された。34万点超に及ぶ民俗資料は世界屈指で、誇るべき顔の一つ。
王国の椅子、奴隷をつないだ鎖、絵と物語で故人を悼む「陽気な墓」など、意外性や生の迫力、量に圧倒される。
台所の椅子とかコーヒーの飲み方とか、映像や模型も併用した情報の洪水が五感を刺激して、古今東西、日常の多様性をひしと思う。
約50人の研究員は常に世界で渉猟を続けており、難民が使った携帯電話、といった新臓品の数々が現代を伝える。
「自己と他者への理解を深める。今ほど館の役割が求められている時代はない」と館長の吉田憲司氏(68)は語る。
大小、色とりどりの展示品が見知らぬ世界へといざなう
岡本太郎記念館
太陽の塔は公園の顔として沈砂し、再生された内部、アメーバーから人類まで40億年をたどる「生命の樹」の見学に世界から人が集う。「塔は外と中とが一体の生きもの。血流が止められ仮死状態だったが、ようやく息を吹き返した」と説く.
(館長・修復を指揮した平野暁臣氏(64))
太郎は樹に据える恐竜模型のシワ1本にまでこだわったという。「生命力のダイナミズムと尊さを瑞々(みずみず)しく表現する。その哲学の再現が何より大切だと考えた」。
美しくも幻想的な体内で、すっくと伸びた樹にくぎ付けになる。
万博を見学しなかった理由について江國が「あのおそるべき人手に辟易したから」と記したように、当時、内部を見学できたのは、総入場者の14㌫に過ぎなかった。遺産の数々をゆっくりと見て回る。
自然文化園には「空中観察路」が設けられ、鳥や動物の視線から森の眺めが楽しめる。
(2023,11,19 讀賣新聞 よみほっとから)
6才、4才、2才、と3人の子供を乗せて、亡夫の「スバル360」運転で大阪万博に行きました。
夫は新しい万博記念公園には行けなかったですね。私は
一回は行きたいと思いましたよ。この「よみほっと」を
読みますとね。
(人''▽`)ありがとう☆ございました